夢追いのガーネット
Episode 09

お世辞にも綺麗とは言えない字で書かれた名前を見下ろし、紅は手に持った資料をぺらぺらとめくる。
書かれてある四人分の名前と部屋番号とを照らし合わせ、間違いがないことを確認しながらプレートを押し込んだ。
先程から片手の指ほどは繰り返している行動だ。
四人で一部屋という振り分けが9部屋、三人一部屋が3部屋。
全てのネームプレートを嵌め込み終えると、紅はくるりと廊下を見回した。
まだ参加者が集まる様子はなく、廊下はがらんとしている。

「…しっかし…もっと字の上手い人は居なかったの?」

今時小学生でももっと上手い字を書く子もいるのに。
名前を書かれている欄を眺めながら、紅はポツリと呟いた。
そしてふと自身の腕時計を見下ろして気付く。

「他にも色々と準備しないとね。食堂の人たちにも挨拶に行きたいし…」

のんびりしている場合ではない、と彼女は頭を切り替えて小走りに廊下を戻っていく。
次の指示を受けるため、彼女をこの場へと呼んだ人物を探した。

「玲姉さ……じゃなかった。西園寺コーチ!」

廊下の向こうを歩いている彼女を発見すると、紅はその歩みを止めるべく少しばかり声を張り上げる。
声に気付いた彼女が振り向いた。

「どうしたの?」
「ネームプレートは終わりました。次、何します?」
「あら、ありがとう。そうね…ミーティングルームのセッティングも終わってるし…」
「何もないなら、食堂の方に行ってもいいですか?」

確認のように問いかける紅に玲は頷く。
特に切羽詰ってしてもらわなければならないこともないし、止める理由はないだろう。

「良かった!ドリンクは食堂を借りないと用意出来ませんから、そのお願いに行くつもりだったんですよ」
「それに関してはすでに話してあるわよ?」
「でも、使う人間が挨拶に行くのは当たり前ですし」

確かに常識的には間違っていないし、寧ろその方がいいだろう。
この細やかな気配りを教えたのは両親ではなく、彼女の兄である暁斗だ。
紅の両親は、彼女が小学生低学年の頃から海外で働いている。
幼い彼女を連れて行くことも考えた両親だが、暁斗の反対により二人を日本に残す事になった。
すでに一人暮らしでも出来そうなほどに何でもこなせた暁斗。
目に入れても痛くないほどに妹を可愛がる彼は、一つの文句も無く喜んで彼女を育て上げた。
そんな二人だが、紅にも暁斗にも「置いていかれた」という気持ちはない。

「あぁ、紅」

玲の返事を聞いた紅はそのまま食堂を目指そうと踵を返す。
そんな彼女の背中に玲からの声が掛かった。

「そろそろ合宿参加者も集まってくるわ。ミーティングには遅れないように。それから…気をつけてね」
「…了解」

色々な意味の含まれた『気をつけて』に対して紅は苦笑を浮かべて頷いた。
玲の考えている全てを理解できているかどうかは微妙なところだが。














食堂のおばさんと戯れる事数十分。
彼女らからすればまだまだ子供の紅だが、意外にも会話は途切れる事無く寧ろ弾む一方だ。
目上の人に対する礼儀やら何やらをマスターしている紅はおばさん方の受けも良かった。

「そうそう。紅ちゃんの他にもマネージャーがいるのかい?」
「そう言えばそんな話も聞いたような…」

どうしてですか?と紅は首を傾げる。
ちゃっかりご馳走になっているお茶の入った湯飲みを手で支え、彼女はおばさんの返事を待った。

「いやねぇ…さっき女の子を見たんだよ」
「それにしても、あの子達は…ねぇ?」

手持ち無沙汰なのか、三角巾をたたみながら彼女らは顔を見合わせる。
どうにも、その女の子達にいい印象を受けなかったらしい。

「女の子…ですか…」

面倒そうだな、と内心溜め息を漏らす。
おばさん達がこう言っているのだから、紅にとってもあまり喜ばしい性格の持ち主達で無い事は確か。
玲がその様な子を招いたと言うのは何とも信じられないのだが。

「ところで紅ちゃん。他に仕事は無いのかい?」
「ええ、全部終わってるん…です、け……ど…」

そう言って思い出したように壁に掛かった時計を見上げる。
聞いていたミーティングの時間まで後15分を切っていた。

「はぅわ!玲姉さんに絞られるっ!!」

奇声と共に紅は慌てて立ち上がる。
自身の使った湯飲みを調理場の流し台へ運ぼうと持ち上げるが、おばさん達に止められた。

「ここからはあたし達の仕事だよ。さぁ、行っておいで」
「ありがとうございます!それと、ご馳走様でした!」

ぺこっと頭を下げると紅はそのまま走り出す。
食堂を出る時に「またお世話になります」と言い残し、彼女は再び駆けて行った。

「稀に見るいい子だね」
「まったくだよ。きっと親御さんの育て方と、あの子本人が優しい子なんでしょ」

そんな会話を少し続けると、彼女らも漸く腰を持ち上げる。
久々の大人数の食事の準備だ。
そろそろ取り掛からなければならないだろうと、湯飲みをお盆の上に乗せて調理場へと入っていった。














走っていた足の速度を徐々に落とす。
少しばかり弾んだ呼吸は、速度を落としたことにより自然と落ち着いてきた。
乱れた髪を鬱陶しそうに背中へと払うと、束ねていたヘアゴムを解く。
ストレートの黒髪が彼女の背中を半分ほど覆った。
ミーティングルーム、と書かれた扉の前に立ち、紅は静かにそれを開く。
立ち入る前に「失礼します」と一声掛け、部屋の中へと入った。

「遅かったのね、紅。食堂はそんなに遠かった?」

クスクスと笑う玲には、紅の今までの行動が手に取るようにわかっているのだろう。
一瞬口を尖らせるも、彼女はすぐに玲の元まで歩く。
すでに席についていた玲は彼女が傍に来ると椅子から立ち上がった。
そして隣に座っていた男性に声を掛ける。

『マルコ。この子がさっき話していた紅よ』

玲の口から紡がれる流麗な外国語。
それを聞いた紅はきょとんとするでもなく、慣れた様子でにこりと笑みを浮かべた。

『初めまして。雪耶紅です。今回の合宿でマネージャーをさせていただくことになりました』

そして宜しくお願いします、と締めくくる。
発音の良い彼女の挨拶に、驚いたのはマルコの方だ。

『宜しく。マルコ=フェルナンド=ルイスだ。綺麗な発音だね』
『ありがとうございます』

照れたように僅かに頬を染める紅を見て、玲は彼女の肩に手を載せてマルコを見る。
そしてお得意のにっこりという笑顔と共に口を開いた。

『可愛いでしょう?私のお気に入りなの』

妹を自慢するような、そんな口調の彼女に紅は嬉しそうに笑う。
紅にとって玲は本当の姉のような存在だ。
愛情が一方通行ではない事が何よりも嬉しい。
マルコと二・三言葉を交わした彼女は、そのまま紅をホワイトボードの前へと促す。
先程からちらりちらりと此方に視線を向けていた男性に向き直った。

「尾花沢監督。彼女が今回マネージャーを務めてくれる雪耶です。雪耶、こちらは尾花沢監督」

後半部分で玲は紅の方を振り向く。
つまりは尾花沢監督と紹介した彼に背を向けている状態で…。

「(なるほど。嫌いなんですね、この監督が。)」

その表情から悟ってしまった紅。
普段より二割増しで深い笑顔なのだが、生憎嬉しい時や楽しい時のそれではない。
紅も貼り付けた笑顔と共に宜しくお願いしますと頭を下げた。

「監督の尾花沢だ。しっかりと働いてもらうから、そのつもりで居るように」
「もちろんです」

笑顔で返す彼女に毒気を抜かれたのか、相手をするのが嫌になったのか。
どちらかはわからないが尾花沢はフンと鼻を鳴らすと彼女から目を逸らす。

「Bグループと言い、君と言い…西園寺コーチの推しが無ければ…」

そう呟いたのを紅は聞き逃さなかった。
玲の隣に用意された椅子に、彼女に続いて腰掛ける。
座るなり玲が声を潜めて紅に話しかけてきた。

「凄く視野の狭そうな監督でしょう?」
「全くですね。選手が可哀相に思えますよ」
「あら、その為に私が居るんじゃないの」

何を言っているんだとばかりに彼女は綺麗な笑顔を浮かべる。
先程の偽物ではない、本当のそれ。

「…それもそうですね」

玲ならば、あの人が偏った意見を持っていたとしても正しい選出に持っていくことが出来るだろう。
紅が安堵の息を漏らすとほぼ同時に、ミーティングルームの扉がバンッと開かれる。

「「遅れましたー!」」

その声を聞くなり逃げ出したくなる身体の代わりに、人知れず溜め息を零した。

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06.05.01