夢追いのガーネット
Episode 02

階下から自分を呼ぶ声に、浅く沈んでいた思考が持ち上げられる。
それに伴ってノートの上に倒れこんでいた上体を起こせば、その声はより鮮明なものとなって自身の耳に届いた。

「紅ー。玲から電話」
「んー」

身体を伸ばそうと腕を持ち上げれば、関節の鳴る音がして眉を寄せる。
随分と長い間同じ姿勢でいたらしい。
控えめなノックと共に部屋のドアが開かれ、そこから電話機の子機、次いで我が兄が顔を覗かせた。

「何だ、寝てたのか?」
「ちょっとだけ。…玲姉さんだっけ?」

部屋の中に入ってきた兄の持つ子機を見つめ、紅は確認のように彼を見上げた。
紅と同じ黒髪でありながら、彼のそれはまるで猫の毛を思い出させる髪質だ。
柔らかいそれを、窓の隙間から入り込んだ風が遊んでいく。
我が兄ながら男前だなぁと、本人に言えばまだ寝てんのかと呆れられるような事を考えていた。

「おう。玲、紅に代わるぞ。…あぁ、寝てたらしい。待たせて悪かったな」

子機に向かってそう言うと、彼は紅にそれを差し出す。
そして部屋を去ろうとドアの方へと歩き出した。

「暁斗兄、ありがとね」

何が、と問う必要など無い。
子機を軽く振りながら見送る妹に笑みを返し、彼は部屋を出て行った。

「お待たせしました、玲姉さん」
『構わないわ。疲れてるの?』
「いえ。明日の試験勉強です。成績を落とすとサッカー部自体が危険ですからね」
『そう言えば、成績を落とさない事を理由にマネージャーをしてるんだったわね。大丈夫なの?』
「もちろん。折角作ったのに早々に廃部にされたら堪りませんから」

クスリと笑うと、紅は机の隣においてある本棚から辞書を取り出し、それを持って再び椅子に腰を下ろした。
その間も子機を通して玲との会話を続けている。

「ええ。試合の次の週ですよね。わかってます」
『準備は出来てる?』
「それなりに。とりあえず今は只管知識を押し込んでますけど…」
『そう。なら問題ないわね。そんなに頑張らなくても大丈夫よ』
「実力者が集うんですから、無知って訳にもいきませんって」

そう言って苦笑を浮かべると、電話口の向こうで玲が「あなたらしいわ」と呟いているのが聞こえた。
紅は子機を肩に挟んで落とさないように気を配り、先程意味を調べた単語をノートに書き込んでいく。
そして、今も続いている玲の話に集中しようと、勉強中のノートを閉じて選抜用に作ったそれを開いた。

『そう言えば、あなたにはマネージャーとしても動いてもらう事になると思うわ』
「マネージャー…ですか。まぁ、普段部活でマネやってんですから、そう変わりませんけど…」
『あと二人マネージャーとして選んであるらしいわ。でも、あまり期待できないとは思うの』

玲の声のトーンがやや落ちた事から、よっぽどなのだと悟る。

「ドリンクとか、かなりの量必要だと思いますけど…」
『あぁ、そんな事はあとの二人に任せてしまいなさい』
「任せてって…」
『紅は主に私の補佐をしてもらうから。基本的にマネージャーの仕事は二人の仕事よ』

あなたにそんな事をさせるつもりはないわ、と玲は言う。
玲が自分を評価してそう言ってくれているということ、紅は素直に嬉しかった。
紅は電話越しに伝わらない程度にクスリと笑うと、ノートの付箋を探って『仕事』と言う欄を開く。
その中に癖のない綺麗な文字で『マネージャー兼任』と付け足した。
それの上をシャーペンの先でトントンと叩きつつ、玲の言葉に集中する。

『日程はこんな所かしら。後で家に持っていくわ』
「じゃあ、お願いします。それにしても…電話よりも直接会った方がよかったんじゃないですか?」
『それはそうなんだけど…今日は駄目なのよ』

駄目?と紅が問い返そうとした時、丁度西に面した窓からコンッと言う音が聞こえた。
覚えのある合図に、紅はなるほど…と玲の言葉に納得する。
そして合宿用に用意したノートを閉じると引き出しにしまいこむ。

「翼が居るんですね」
『そう言う事よ。そろそろ電話を切った方がいいかしら?』
「そうしていただけると助かります」

玲の声を聞きながら紅は椅子から立ち上がり、半分だけ引いてあったレースのカーテンを開く。
ガラス越しにベランダの手すりに凭れかかる背中を見つけ、彼女はその口元に笑みを乗せる。
カーテンを開いた音で気づいたのか、彼はくるりと頭をこちらへと向けた。
そして紅が電話中である事を悟ると唇だけを動かして「ごめん」と紡ぐ。
首を振る事でその返事をすると、窓を開錠して彼を迎え入れた。

「はい。では、失礼します」

その言葉を最後に紅は子機を耳から離す。
通話時間の長さに驚くが、向こう持ちだから問題ないだろうとすぐに頭を切り替えた。

「ごめん。電話中だったんだ?」
「別にいいよ。もう終わるところだったし。子機を置いて来るからちょっと待ってて?」

すでに勝手知ったる、状態の彼は紅の言葉に頷き、脇に畳んであった椅子に座って雑誌を開いていた。
そんな彼を横目に紅は部屋を出…ようとして振り向く。

「リクエストはある?」
「…んじゃ、どっかの誰かさんが寝ないようにコーヒー」
「………寝ないわよ。教えてもらうって言うのに」
「はいはい。そうである事を祈ってるよ」

雑誌から視線をこちらに向けて、挑発的な笑みを一つ浮かべると、彼はすぐに視線を戻した。
紅はその返事に肩を竦めてから部屋を後にする。

為にはなるが、進んでは読まないような専門的なことばかり書かれているサッカー雑誌。
勉強机の前に一つ椅子があると言うにも拘らず、用意されている折り畳み椅子。
そして、窓を一度叩くだけの合図。

その全ては彼との時間の為に用意されたものだ。
















「お、電話終わったのか」

丁度部屋を出てきたばかりの暁斗が紅に気づいて手を差し出す。
彼女の持つこの子機は彼の部屋に置かれているものだった事を思い出し、それをその手の上に乗せた。

「取り次ぎありがとう。玲姉さんが今度の休みに逢いましょう、だってさ」
「そっか。わかった。あとで連絡しとくよ」

そう言って紅の手の上にポンと自分のそれを乗せる暁斗。
生まれたときからの付き合いである紅には、それが彼の照れ隠しの行動だと言う事がわかっていた。
意外と淡白な性格をしていると思われがちらしい兄だが、家では全くそうは思えない。
緩みそうな頬を隠そうと顔を逸らす辺りは凄く子供っぽいな…と紅は笑った。

「多分そう言うと思うよ、って言ったらね。「楽しみにしてる」だって。よかったね」

言い終わるが早いか、紅は踵を返して階段を下りていく。
途中で何やら鈍い音が耳に届いたが、大方暁斗が何かにぶつかったのだろうと気にはしなかった。
手際よく三人分のコーヒーを淹れて内一つを兄に差し入れると、紅は自分の部屋に戻る。



目に入ったのは、先程よりも数ページほど読み進んだところで開かれたままになっている雑誌。
だが、それを読んでいた人物はその場には居なかった。
風に揺れるカーテンが彼の所在を教えるかのように部屋の中に踊る。

「忘れ物でもしたのかな」

そう呟くと壁に立てかけてあった平机を絨毯の上に倒し、その上に勉強机から荷物を移動させた。
ついでにコーヒーカップを手前と向こう側に置いて、先程の勉強の続きを始める。
途中だった単語調べの続きを、とシャーペンを持つと同時に、カーテンが一際大きく揺れた。
そして窓の開く音と共に彼が姿を見せる。

「もう戻ってたんだ?」
「戻ってたよ。はい、翼の分」
「ありがと。あぁ、これ…母さんが持ってけってさ」

紅の向かいに腰を下ろすと、翼は持ってきた紙袋を彼女に手渡す。
まだほんのりとぬくもりを伝えるそれの口を覗けば、中にはふっくらした菓子パンが入っていた。
途端に輝く紅の表情に、彼はクスリと笑う。

「ありがとう!うわー…おばさんの手作りのパンって久しぶりだよね」
「最近は忙しそうにしてたしな。それ食べながら勉強頑張れ、だってさ」
「ホント?じゃあ、食べる」

そう言ってから伸ばした手の先から、突然紙袋が消えた。
かと思えば、いつの間にか立ち上がっていた翼の手にそれが握られている。
背後で紅が不満を垂れているのに気づきながらも彼は扉から廊下へと顔を覗かせ、口を開いた。

「暁斗!」

程なくして「邪魔すんなよ!」と彼の声が返ってきた。
お互い扉から顔を覗かせるだけと言う何ともいえない状況で会話をしているのだろう。

「母さんが作ったパン。紅に渡してると全部なくなりそうだから、先に渡しとくよ」
「失礼な。そんなに食い意地張ってないよ」
「確かに受け取った」
「暁斗兄もそこは否定してよ」

ちゃんと廊下に出てきたらしい暁斗の声が近くなり、そして遠のいていった。
結局紅の声は綺麗さっぱり無視され、二つを残してパンが持ち去られていく。

「ったく…人をなんだと思ってるわけ?」
「母さんの手作りとなると見境なくなる奴」
「………………………何か、今ので翼の私に対する認識がわかった気がするね…」

そう呟いた紅にクスクスと笑うと、翼はさっさと始めるよ、と言って教科書を開く。
彼女の唯一の苦手教科とも言える歴史の為に、彼は態々紅の部屋を訪れているのだ。

「大体過去の事を知ってどうしようって言うのよ…必要な奴だけ覚えればいいのに」
「そうも言ってられないのが学生だろ。って言うか、何で覚えればいいだけの歴史がそんなに苦手なわけ?」
「それがわかれば苦労しない」

苦手とは言え、常に80以上はキープしているのだからあまり問題ではないようにも思える。
だが歴史を除けば平均96の紅にとっては許しがたい事実であった。
おまけに、サッカー部の為にも成績は下げられないと来ている。
溜め息ながらに立ち上がってくれたのはサッカー部キャプテンであり、紅の幼馴染である翼だった。
家が隣と言う立地条件で、尚且つ年が同じとくれば仲がよくなるのも決して変な話ではない。
この年までその関係が続くということに関しては珍しいかもしれないが…。
尤も、『幼馴染』と言う関係だけではないから、今の状況が出来上がっているのだろう。

「出来が悪すぎるわけじゃないから教える側も難しい…」
「うー…ごめん」
「………ま、日々頑張ってるマネの為にだしね」
「…それだけ?」

確信めいた表情で首を傾げる紅に、翼は肩を竦めた。
そして自分好みに用意されたコーヒーを一口飲み、小さく口を開く。

「大事な彼女の為………なんて言って欲しければ、点数を上げることだね」
「………相変わらず厳しいよねー…」
「俺は甘やかさない主義だから。ま、成績がよければご褒美くらいは考えてあげてもいいよ」

翼がそう言うと、紅は不審げな目を向ける。
その眼差しに気づいたのか、彼は首を傾げてノートをめくっていた手を止めた。

「何?」
「何でもないよ。ね、ここの問題ってさ」

参考書を片手に翼の隣へと移動して、疑問を抱いた問いを指差す。
二人して参考書を覗き込み、問いかけ、答えては時間を過ごしていた。

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06.03.31