Soccer Life STAGE--32
「…え?」
「…は?」
間の抜けた声が交差する。
そんな光景を、ただ一人…その原因を作った玲だけが、楽しげに微笑みながら眺めていた。
自主練と称された恐ろしい量のノルマを課せられた翼は、疲れによりやや不機嫌に帰宅。
サッカーをしている分には楽しいのだが、監督本人は居ない上にあの量のノルマだ。
さすがの彼だって、文句の一つも言いたくなると言うもの。
因みに、他のメンバーはノルマを見せられた時点で文句を十数個は零した。
それを思えば、翼はキャプテンらしかったと思う。
何だか油の切れた機械みたいに軋む関節に、恨み言の一つでも言わせて貰おうと思ったところで携帯に着信。
リビングに荷物を置くなりそれを確認すれば、それは今しがた会いに行こうと思った玲本人からだった。
『お客さんが来てるからお茶をよろしく』
簡略かつ、分かり易い文面。
最後に付けられた顔文字の存在にこめかみが動いたのも仕方がないだろう。
やや乱暴に制服のボタンを外しにかかり、それでもサッカー用のバッグはそれなりに丁寧に床に置く。
そうしてキッチンへと向かった彼はものの10秒で盆を片手に戻ってきた。
どうやら、準備だけは整えられていたらしい。
それを片手に応接間へと向かい、ドアを二度ほど叩いた。
客がいるんだから、客がいるんだから―――そう自己暗示を繰り返して、苛立ちを顔に出さない努力をする。
程なくして足音が近づいてきて、ドアノブが動いた。
受け取りに来るのは玲と思い込んでいた翼の目に飛び込んできたのは、鮮やかな銀。
翼本人からすれば悔しいけれど、少しは見上げなければならない位置にある顔。
玲ほど女性らしくはなく、けれども端整と呼ぶに値するその顔立ちは、自分と同じような表情を浮かべていた。
「…え?」
「…は?」
相手の声に誘われるように、翼も間の抜けた声を発する。
今彼の目の前にいるのは、はとこではなく選抜仲間兼遊び友達である暁斗その人であった。
「いつまで見詰め合っているつもりなのかしら?」
そんな玲の声により、長い金縛りが解ける。
息は…していたと思うけれど、無意識に止めていたような気はしないでもない。
とりあえず、と先に動いたのは暁斗の方だった。
それもそのはず。
暁斗が動かなければ、翼は部屋の中に入ることすら出来ないのだから。
「って言うか、何で翼?」
「何でって…それはこっちの台詞。ここ、俺の家」
「…………………あぁ!椎名って翼か!!椎名翼!どっかで聞いた苗字だと思ったんだよなぁー」
ポン、と今時珍しく拳を掌に乗せて、やや興奮気味に唇を動かす暁斗。
そんな彼女に、翼は呆れたように溜め息を吐き出した。
漸く調子が戻ってきたらしい。
「普通、人の苗字を忘れる?それも、仲間の」
「…普通、覚えてるもんか?名前で呼んでんだし、忘れるだろ」
ケロッとそう答えた暁斗に、翼は言葉を失い、玲にいたっては声を堪えて笑っている。
この分だと、他の…そう、例えばユースの彼らの苗字も危ないのではないだろうか。
らしいと言えばらしいのだが、覚えておいて貰いたいと言うのも人の心。
「柾輝は?」
「柾輝…柾輝………………黒崎?」
「黒川!大体、黒崎柾輝…語呂が悪いだろ。苗字と名前の終わりが同じなんて」
とても頼りなく紡がれた苗字は、努力は見えるものの、一文字間違っている。
二文字のうちの一文字なのだから、惜しいと言って良いものかどうか…悩む所だ。
「黒崎柾輝…確かに、何か言いにくいな。格好良い事に変わりはねぇけど」
「格好良いって…。……あぁ、そっか。暁斗って、黒が好きなんだっけ?」
普段好んで着ている服装を見れば、黒が好きなことくらいは明らかだ。
ここまで悪びれた様子がなく爽やかに言われると、苗字を忘れられただとかはどうでも良くなってくる。
長く溜め息を吐き出してから、翼は腕に抱えていた盆を平机の上に置いた。
「客が暁斗なら、そう言えばいいのに」
「暁斗が分かっていない様子だったから面白くて…つい、ね」
思った以上の反応だったわ、と玲は楽しげに笑う。
こちらも自分が悪い事をしたなんていう考えは微塵もなさそうだ。
気にしている自分が馬鹿らしく思えてきて、翼はドア付近で立ったままの暁斗を振り向く。
「客なら客らしく座れば?」
「あぁ…うん」
「大体、玲も客にドアを開けさせる?」
今更だが、本来ならばドアの所で顔を合わせるなんて、おかしいではないか。
彼女曰く、暁斗は客、なのだから。
暁斗がドアを開けたという事は、つまり彼女は客にドアを開けさせたと言う事。
呆れた風に玲に向けてそう言うが、彼女は笑みを深めるだけだった。
結局のところ、自分も暁斗も彼女には逆らえない、と言う事なのだろうか。
あれから二・三言葉を交わして、翼は応接間を後にした。
ついでに今度の休みにフットサルの約束まで取り付けていく辺り、転んでもただでは起きない、と言ったところか。
「それにしても…玲さんも人が悪いな」
「あら、忘れる方がいけないのよ。私は選抜練習の間はちゃんと椎名って呼んでいたはずだけど?」
「………そう言えば、聞いたような気もしなくはない…か」
「でしょう?それはそうと…私の苗字は覚えてくれてるんでしょうね」
「呼ぶ機会が多いんで当然ですよ、西園寺コーチ?」
クイッと口角を持ち上げて笑うその表情に、女らしさを感じる事はできない。
異性を演じることがかなり板についてきたな、と心中で苦笑を漏らした。
同時に、言葉に出来ない遣る瀬無さもこみ上げてくる。
「あなたは…いつまで続けるつもりなの?」
何を、とは言わなかった。
だが、暁斗はそれを正しく理解したらしい。
浮かべていた遊び半分の笑みを取り下げ、真剣な表情を見せる。
「思うように、思う場所でやりたいだけなのに…出来ないって、辛いな」
哀しげに眉尻を下げた暁斗に、玲の方が言葉を失ってしまった。
こうする事でしか自分の望む場所でサッカーが出来ない彼女が、見ていて辛い時もある。
自分は、女子の中でサッカーが出来るだけでも良かった。
しかし、彼女は違う。
困難であると誰よりも理解しながらも、性別を越えた中でのそれを切望しているのだ。
その壁は高く、そして厚い。
簡単に越える事も、況してや壊す事も難しいそれを前に選んだ最後の手段。
応援したいけれど、同時に本来の姿に戻してあげたいとも思う。
「…辛いわね」
「…俺のために、そう思ってくれる人が居るなら…今は…それだけで十分だ。その人のためにも、頑張れる」
一人じゃないということが、どれほど力強いことか。
応援してくれる、心配してくれる人がいると言う事は、それだけで力になる。
それだけで乗り切れるほどに楽な道のりではないけれど、更に一歩を踏み出す力になる事だけは確かなのだ。
哀しさを引っ込めて、暁斗は強く笑った。
「頑張りすぎちゃ駄目よ?心配する人は…沢山いるんだから」
「あぁ。わかってるよ。ありがと、玲さん」
Rewrite 07.05.16