Labyrinth of memory

『コウ、気分はどうだい?』

何年振りと言っても過言ではない。
久しぶりに見た風景に入り込んできた、一人の男性。
日の光の差し込まぬ室内で、それでも男性の髪は輝いていた。

『誰…?』
『……コウ?』

久しぶりに発した声に、男性は驚きの表情を見せた。
しかし、その表情はいつしか深い悲しみへと移り変わる。

『君の名前は?』

ふわりと浮遊感を身体に感じると、目線の高さが上がる。
まだ寝起きのように霞んだ思考では、それが抱き上げられたのだと気づくまでに時間を要した。

『………コウ』

自分の名前を記憶の中から引きずり出す。

『はは…同じ名前か…』

力なく笑った声は、本当に悲しげだった。
傾げた首に舞い降りてきた大きな手に、目を閉じる。

『今日から私が君のお父さんだよ』

告げられた言葉は、今でもしっかりと頭の奥深くに根付いている。













「ホーエン…ハイム……」

コウの唇がそう紡いだ。
一瞬だったか、数分だったか。
彼女には酷く長く感じる時間、記憶の旅に出ていたようだ。
自分の正体を知る、記憶に。

「もう、父とは呼んでくれないのかい?コウ」

悲しげに伏せられた目に胸が痛む。
しかし、それ以上に彼に対する大きな想いがあった。

「どうして。記憶を消したの?」

距離を開けるように一歩だけ後方へ下がり、コウは言う。
その言葉に、彼、ホーエンハイムは苦笑を浮かべた。

「やはり私が引き金になったか…」
「どうして今更出てくるのよ!!」

コウが半ば叫ぶように言った。
ふわりと反動で揺れる髪に、夕日が映り込み色鮮やかに輝く。

「…コウ」
「忘れさせるなら、ずっとそのままにしておいて欲しかった!思い出させないで!」
「コウ」
「思い出したら、もうあの人の傍にいられないじゃない…」

地面に崩れ落ちるようにして座り込む。
握り締めた手が、手の平を傷付けた。
鮮やかな赤が一筋流れ落ちる。

「この血を…あんなに憎む人の傍には……いられない…。もう、知らなかったでは済まされないわ…」
「コウ、すまなかった」
「謝らないでよ…。後悔するくらいなら、初めから……殺しておいてくれればよかったのよ」

記憶の断片を夢に見た時、霞がかって聞こえなかった言葉。
それはいとも簡単にコウの唇から滑り落ちた。

「人体錬成を成功させた人なんて、いない。あなたの娘だって……生き返らなかったじゃない」

目の前の『父』が傷つくとわかりながら、コウは言葉を続ける。

「あなたたちの“コウ”の中に私の魂が入っただけ!器が同じなだけで、魂は“コウ”のものじゃないのよ…」
「コウ、君には辛い思いをさせた…すまない」

ホーエンハイムは静かに目を閉じる。
流れ出る涙が視界を揺らした。

「エドとアルの傍にいることも…出来ない…。あの子達は成長していくのに、私は………」

自らの両手を広げると、傷ついた手の平が露になった。
こうして血は流れて、痛みを伴うのに。
自分の肉体はこれ以上の成長を放棄していた。
18歳の時のまま、彼女の肉体は成長を止める。
本来は赤の他人であった肉体への魂の定着は、その時になって漸く歪みを見せたのだ。











不意に、コウの肩にホーエンハイムの手が触れる。
小さくそれを揺らした後、彼女は弾かれたように立ち上がった。
目尻に留まっていた涙が零れ落ちる。

「コウ!」

彼の声を背中で聞きながら、コウはその場から駆け出す。
何度も自分を呼ぶ声に振り返りそうになる自分を叱咤して、ただ只管走る。









「…コウ?」

エンヴィーが首を傾げた。
仕事の帰り道、彼は偶々通っていた路地の向かいを横切っていく彼女を目にしたのだ。
彼女は自分に気づく事なく、足を止めずに走り去ってしまった。
追うようにして路地を出たエンヴィーの視界にコウの背中が映る。

「……泣いてた?」

一瞬だけしか見えなかった横顔だったが、確かに彼女は涙を流していた。
それを見るだけの動体視力は持ち合わせている。
どうしたものか、と少しの間その場に立ち尽くしたエンヴィー。
だが、この場に居ても仕方がないだろうと判断して、彼は即行動に出た。
持ち前の運動神経を生かして建物の屋上へと登り、そこから屋根伝いに移動する。
彼女が何処に走り去ったのか、ある程度の予測をたてて。














結局の所、ここ以外にコウを迎え入れてくれる場所などなかった。
つい数分前まで記憶をなくしていた彼女にとって、唯一の場所。
数日間ではあったが、見慣れた部屋の中に滑り込むようにして入ると、足の緊張が解けた。
ストンッと抵抗もなく座り込むと、コウは静かに俯く。
思わず逃げ出してしまった自分に苦笑を浮かべると同時に、不本意ながら取り戻した記憶が頭の中を彷徨う。

「あの人との血の繋がりなんて…いらなかったのに…」
「誰との?」

独り言として消え去るはずだった言葉に返って来た言葉。
驚いて揺れる肩は、それでもその声の主をしっかりと聞き分けていた。
未だ涙の伝う顔では振り向けない。
コウはエンヴィーに背を向けたままだった。

「コウ。何かあったの?」

エンヴィーはそう言うものの、コウの表情を見ようと彼女の前に回ることはなかった。
小さく、そして儚げに見えるその背中を見下ろしながら、彼女の答えを待つ。
やがて返って来た答えは彼の望む物、予想した物とはかけ離れたものだった。

「…お願い…」
「ん?」
「私を……殺して」

その言葉を受け、エンヴィーは眉を寄せる。
彼女が何故その様な事を言うようになったのか、その経緯を知らない。
しかし、その言葉は十分な力を持って彼の機嫌を急降下させた。

「何言ってんの?」
「恐らく、肉体だけは死ねるから。そうしたら…魂は元の場所へ帰るわ」
「コウ」
「殺されるなら、あなたがいいの。だから、お願い」

自分を呼ぶ声にも答えず、コウはただ自分の思うままに言葉を繋ぐ。
一度の溜め息のあと、エンヴィーは答えた。

「俺はコウを殺すつもりはない」

その言葉に、コウはゆっくりと振り向いた。
涙の後の残るそれは悲しげな表情を作り出している。

「“アイツの娘だなんて言わないで…”って言ったよね?」

コウは少し赤らんだ目を逸らす事なく、エンヴィーに向かって言う。
彼は頷く事でそれに答えた。

「ごめんなさい。その願いは、聞き遂げられなかったみたい」

悲しい笑みを見れば、彼女が何を言わんとしているのかがわかった

05.06.07