Labyrinth of memory
目を開ければ見知らぬ場所だった。
知っているものは何一つなく、その場にあったのは闇。
そこが路地だと言う事だけは頭のどこかで理解できた。
「ここは…どこ?」
手を滑らせて、冷たいコンクリートに腰を降ろしている…と言うよりも倒れている状況だと言う事に気づく。
とりあえず状況を探るべく立ち上がった私の視界に、また見知らぬモノが眼に入ってきた。
それに視線を向け、その薄汚さに嫌悪感すら抱く。
自分もまた、決して綺麗な状態でないという事は理解出来ていたが。
容貌、顔つき、そしてその顔にはり付けた笑み。
全てが私の癇に障るものでしかなく、その感情を隠すこともなく眉を寄せる。
「こんな時間に一人歩きか?世の中物騒なんだぜ?」
「ご忠告どうも。私の心配はいらないわよ」
何を根拠に。そう問われれば、咄嗟には答えられなかっただろう。
しかし、私には何故か心配要らないと言う確信があった。
愉快そうに歪められる男の笑みに嫌悪感を深めながら、私は少しだけ後ずさる。
それを目ざとく感じ取った男は、急速に足を速めて私の腕を掴む。
ギリッと音がするほど強く掴まれた痛みに表情を歪めると、男を睨み上げる。
私が悲鳴を上げない事が面白くないのか、男は懐からナイフを取り出した。
白銀の刃が月の光を反射させて、その存在を見せ付ける。
「そんなナイフ一本で怯えるほど子供じゃないわよ?」
こういったお決まりな奴は挑発するに限る。
強気な態度を見せるようにすれば、逆上した男は私に向かってナイフを振るってきた。
案の定、怒りに身を任せた男の攻撃は読みやすい。
あえて紙一重で避けたように見せる為に、長い髪の数本を犠牲にしてみた。
自分の視界に、ふわりと金糸のような髪が舞う。
同時に、視界を別の漆黒が覆いつくした。
「…名前は?」
腕を引かれるままに見知らぬ建物へと入った。
漆黒の髪と、バイオレットサファイアの様な深い紫の眼を持った男性。
まだ、名前は聞いていない。
自分の名前を思い出そうとして、私には思い出すべきモノが無い事に気づいた。
人としてあるべきモノ。
今までの人生の間に蓄積されているべき、記憶。
『……――さん……』
不意に、頭の中に声が響く。
どこか懐かしい声。
『……コウ、ほらおいで?』
また、聞こえる別の声。
誰の声かを思い出すことも出来ず、ただ繰り返される僅かな声。
促がされるように、私は口を開いた。
「……コウ?」
先ほど呼ばれたのが、自分の事だとしたらその名前なのだろう。
口に出して、漸くそれが自分のものであると実感できた。
「…何でそんな心もとない返事なんだよ…。自分の事でしょ?」
面倒そうに、どこか冷たい調子でそう声をかけられる。
「ごめんなさい…。本当にわからないから…」
それ以外は何もわからない。
頭の中で時折聞こえる声が誰のものなのだ、とか。
自分がどういう環境で生きてきたのか、とか。
「………はぁ…。で、他に何かわかる事はないの?」
先ほどの問いかけの時に私が肩を震わせた所為か、今度は少し優しく問われた。
男性の言葉に今一度記憶を探る。
結果は同じで、私は躊躇いながらもただ一度首を縦に動かした。
「まさかと思いたいけど…記憶喪失…って事?」
いかにも面倒、と言う感じの口調で男が言葉を落とした。
「夜も遅いし…寝れば?」
数時間、一通り当たり前のような質問を繰り返された。
一般知識としての記憶は欠如していないらしい。
だが、肝心の自分に関する事が全て抜け落ちていた。
疲れたように窓際の椅子に腰を降ろすと、男性が口を開く。
「面倒だよね、人間って。寝ないと生きていけないって言うんだから」
「あなたは…違うの?」
あえて『人間』といった。
彼の言い方では、まるで自分は違うみたいだ。
疑問を口に出してから、ハッとして口を噤む。
だが、男は気を悪くした様子は見せずに答えた。
「…言っても仕方ないだろうから言わないけどね。厳密に言うと、違う」
「そっか…ありがとう」
「?何でお礼を言うの?」
「教えてくれたから」
そう答えれば、男性は「何をわけのわからない事を…」と言う風な表情で私を見下ろした。
まだ出会ってほんの数時間だけれど…。
この人の性格が徐々に見えてきたように思う。
人の好意が判らない…いや、それを知らない人。
きっと、今までの生活でそれを受ける機会があまりに少なかったんだと思う。
だからとは言わないけれど…放っておけない。
ふと、男性の視線が私の手元に落ちた。
そしてその表情が不機嫌に歪められたのを見て、私も同じく視線を落す。
そこには先ほど強く掴まれた所為で軽く痣になっている手首があった。
「痛む?」
「…え?いえ、大丈夫」
まさか心配されるとは思っていなくて、その言葉に間の抜けた返事を返してしまった。
だが、男性は私の返事で納得していないのか、私の腕を持ち上げる。
無意識に痣に触れないように、優しく。
腕をつかまれている為に近づいた紫の眼に、私の鼓動は了承無しに弾む。
「……結構はっきり痣になってるね。冷やした方がいいだろうから…ちょっと待ってなよ」
そう言って私の腕を解放すると、男性は部屋の外へと歩いて行ってしまった。
腕を放された後でも治まらない動悸に、半ば呆れながら溜め息を落とす。
恐らく、頬に集まった熱は気のせいじゃない。
程なくして戻ってきた男性の手には濡れたタオルがあった。
「はい、腕出して。本当なら氷とかで冷やした方がいいんだろうけど…ないからね」
「ありがとう…」
その声の優しさに、言われるままに自分の腕を差し出した。
まず、ひんやりと体温の低めの指が触れ、そして冷たいタオルが痣の上に乗る。
ふと視線を上げれば、再び紫の眼に自分が映る。
「…人の顔ばっかり見てないで寝れば?顔色よくないよ」
私がソファーに座っていて、彼はその前の床に腰を降ろしている状態。
ピンッと額を弾かれ、私の身体は力に抵抗する事なく皮製の布の上に転がる。
先ほどより高くなった彼の視線が私を見下ろした。
腕に乗せられた冷たさの心地よさか、包まれた手の心地よさか…。
とにかく酷く安心できて、私はいつの間にか視界を閉ざすように瞼を下ろしていた
05.04.22