時舞う旅人  26

軋む音二つ。
思った以上に目が冴えていて、ベッドの上で本を読んでいたコウはその音を聞きつける。
一瞬気のせいかと思い、再び活字へと視線を戻したところにもう一度キシリと隣の部屋から聞こえてくる音。
顰めた足音は、今の時間には不必要なものだ。

「…メラノス、起きてる?」
「何?」

コウの足元で身体を丸めていた彼が、その首を持ち上げて答える。
少し落とした照明が、彼の藍の目を光らせた。

「あの足音、気のせいじゃないよね」
「うん。明らかに脱走犯の足音だね」

パタパタと尾をシーツに当てながら彼は言う。
その答えに、コウは肩を竦めて溜め息と共に読んでいた本を閉じた。
そして、ベッド脇の着衣を素早く身に纏い、最後にコートを羽織る。

「“明日も朝早いからな!今日はゆっくり寝よう!!”ねぇ…」
「ま、あの時点で抜け出す事は決定してたね、明らかに」
「あんな調子で騙されたと思ってるのかな」

足音を忍ばせて窓際に立ち、開いたカーテンの隙間から下を見下ろす。
キョロキョロと周囲に気を配りつつ、遠ざかっていく背中は二つ。
見覚えがありすぎるそれを視界に捉え、彼女はまた一つ溜め息を零した。

「第五研究所…か」
「危ないから行かない事を勧めるよ」
「でも、じっとしていない事くらいは百も承知でしょ?」

悪戯めいた笑みを返せば、彼は猫ながらにその表情に諦めのそれを浮かべ、重そうに腰を持ち上げる。
すでに彼女の手によって開かれていた窓の桟に飛び乗り、彼女を見上げた。

「どうやって降りるつもり?」
「…ま、彼らに倣うのが一番手っ取り早いわね」

パンと両手を合わせれば、機械鎧の内に刻み込まれた錬成陣が光を纏う。
その力を解き放つべく、カーテンへとそれを触れさせた。











自分の身長の倍以上もある塀を見上げ、コウは自身の浅葱色の髪を邪魔にならないよう結い上げる。
最後に仕上げとばかりにそれを弾き、不自然に垂れた有刺鉄線を機械鎧の腕で握った。

「ここから侵入したみたいね。メラノスはどうする?」
「…ちょっと肩を借りるよ」

コウの問いかけにそう言うと、メラノスは地面を蹴って彼女の肩に降りる。
そしてまたそこを蹴り、音も無く塀の上へと立った。
流石は猫。

「便利な身体ね」

羨ましいわ、と言ってコウも鉄線を使って器用に片手だけで塀を登っていく。
元々踊りをしているので、身体能力的には決して低くは無い。
もうあと少しと言う所で、空いていた右手をぐいっと引っ張られた。
そのまま持ち上げられ、塀の上という不安定さを感じさせない腕の中に閉じ込められる。
コウはその端正な横顔を見上げ、笑みを浮かべた。

「ありがとう」
「どういたしまして。掴まってなよ」

彼女の身体を横抱きにすると、メラノスは猫の時同様に軽い足取りで音も無く敷地内へと降り立つ。
しっかりと地面を踏みしめて数歩塀から離れたところで、彼女を腕から下ろした。

「入り口は封鎖。さて、どこから入る?」
「………裏なら門もないから、多分見張りも居ないわ。錬成反応で気付かれる恐れもないから問題なし」
「んじゃ、無い入り口は作るって事で」

気をつけなよ、と言い終えるが早いか、彼は再び猫の姿に戻る。
先程までの闇に溶け込む男性の姿は一瞬で消え、その足元にしなやかな身体の黒猫が現れた。
甘えるように擦り寄ったメラノスに笑みを向けると、コウは裏へ歩き出す。
















ザワリと何かを感じ取り、メラノスの毛が無意識のうちに逆立つ。
そんな彼の反応に、コウは動かしていた足を止めて彼を見下ろした。

「メラノス…?」
「戻るよ」
「…は?」
「…戻るんだ、今すぐに」

此処まで来て戻る、と声を上げた彼に、コウは眉を顰めて問いかける。
だが、返って来たのは少しばかり強張った、いつもより低いテノール。
足を止め、いつの間にか自身よりも後ろに居る彼を身体ごと振り向き、コウは口を開く。

「折角来たんだし、ゆっくりしていけば?」

この場にはそぐわない明るい声。
コウは自身の声を遮って発せられたそれに、思わず背筋を伸ばした。
漸くメラノスの言葉の意味を理解する。
振り向く事を憚られるような、そんな不思議な威圧感。
つぅと背中を冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。

「あら、いつかの黒猫じゃない。今度はお姫様と一緒なのね?」

今まで長い間メラノスだけを連れて旅をしてきたが、今ほどに危険を感じた事は無い。
全身が響かせる警鐘が身体の動きを制限する。

「…スフィリアの子もただの人間の子ね」
「スフィリア…?」

自分の苗字が出た事で、コウの身体の緊張が解ける。
溜まっていたそれを飲み込むと、彼女は意を決して振り向いた。
どの道、相手が二人では逃げる事など不可能。
いや、恐らく一人であったとしても逃れる事など出来ないであろうが。

「初めまして、“時の踊り子”ルデンタ」

男の方がにぃと口角を持ち上げて笑った。
露出の高い服よりも目を惹いたもの、それは彼の太股に浮かんだウロボロスの入れ墨。

「入れ墨…」

小さく呟いた声は、メラノス以外には届かない。
彼はコウの呟きにハッと我に返り、守るように彼女の前に身体を躍らせる。
逆立つ毛並みが彼の身体を倍ほどの大きさに見せた。

「その姿ではその子は守れないわよ」

妖艶な笑みを浮かべる女性が一歩近づけば、メラノスは威嚇の声を上げる。
それすらも楽しいと笑みを深める彼女。

「メラノス!駄目、下がって!」

彼を抱き上げるように腰を折り、その身体に向かって手を伸ばす。
だが、それよりも早く腹部に衝撃を受け、視界がぐらりと揺れた。
一瞬途切れた思考は、回復よりも休息を望む。
沈み行く意識につられるように傾いた体を、男の方が片腕で抱きとめた。

「逃げられちゃ困るんだよね」
「コウッ!」
「あなたにも少しじっとしていて貰いましょうか」

彼に飛びつこうとしたメラノスは、背後から首根っこを掴まれ宙で不安定に揺れる。
女性の腕に爪を立てようにも、背中をとられている彼にはどうしようもなかった。
意識を手放す寸前にコウが呟いた言葉が鎖となり、彼が人型を取るのを拒む。
一種の催眠のようなものではあるが、彼にとってコウのそれはまさに言霊。

「そんなに怒んなくても殺したりしないって」

軽々とコウの身体を抱き上げ、男はけらけらと明るく笑う。
場違いなそれはメラノスの不快感を煽るだけだった。

「ちょっと中の侵入者にお灸を据えるだけだよ」

そう言って楽しげに額に唇を落とすのを見て、メラノスは一層激しくもがく。
届く事のない短い動物の腕をこれほど憎いと思った事は無かった。

「エンヴィー。遊ぶのはやめなさい。これを持ってるのも疲れるのよ」
「はいはい。んじゃ、さっさと用を済ませようか」

そう言うと、彼は正門の真裏に当たる場所に作られた扉を蹴り開けた。
草臥れた扉の蝶番が上げる悲鳴を物ともせず、そのまま暗い建物の中へと消えていく。

「…相変わらず乱暴だわ…」

小さく呟くと共に彼女も歩き出す。
黒を基調としている彼女は、すぐにその闇に溶け込んでいった。

06.06.18