時舞う旅人 27
暗闇の部分から現れた人物に、エドは鋭い視線を向ける。
だが、その人物が腕に抱くそれを視界に映すなり彼の表情は驚愕に染まった。
薄暗い中でもその美しさを損なわない浅葱色の髪が、サラリと揺れる。
全身の血が凍ったように、身体が指先から冷たくなるのを感じた。
「コウ!?」
「はい。それ以上近づかないでね。この子が怪我するよ?」
明るい声が、エドの動きを制する。
楽しげに細められた眼差しは、その腕に抱く人物へと落とされる。
「エンヴィー。遊んでいる暇は無いわよ」
「はいはい」
やる気など感じさせない口調で、エンヴィーと呼ばれた男は肩を竦めた。
そして抱えていたコウを近くの柱へと凭れさせるように下ろす。
意識の無い彼女の顔がかくんと落ち、エドの方を向いた。
息を呑む彼を見て、エンヴィーはクスクスと笑う。
そして、彼に見えるようにコウの肌理細やかな頬を指で撫でた。
視界の端で、ラストに持ち上げられているメラノスがもがくのを捉え、彼は口角を持ち上げる。
「綺麗なものってさ、めちゃくちゃに壊してやりたくなるよね」
「テメェ…コウに触るな!!」
「おチビさんもわからない奴だなぁ。動くなって言ったんだよ」
一瞬エンヴィーの眼光が鋭さを宿したかと思えば、彼女の頬につぅと一筋の赤が走る。
それを見てエドが息を呑んだ様子が窺え、彼は楽しげに笑った。
「手元が狂って綺麗な顔に傷でも残ったらどうするの、おチビさん?」
ギリッと唇を噛み締め、エドは今にも飛び掛ろうとする自身を諌めた。
今動く事は彼女を危険に晒す以外の何物でもない。
ここでなんとか止まれば彼女は無事なのだと、何度も心の中で言い聞かせる。
「あらら…。そんな思いつめなくても、この子を傷物にするつもりなんてないよ」
「スフィリアの娘は大事だもの」
クスリとラストが笑う。
そして、はいと意識のないコウを手渡すエンヴィーから彼女を受け取る。
少しばかり彼女の方が身長は勝っているものの、コウ一人を抱え続けられるほどの差ではない。
ラストはコウの上半身を柱に凭れ掛けさせるようにして床に下ろした。
「さて、と…。じゃあ、本題に入ろうかな?」
ラストがコウを下ろすのを見とどけ、エンヴィーはエドに向き直ってそう言った。
そして、場にそぐわぬ笑顔を浮かべる。
「優秀な鋼のおチビさんはどこまで知ったのかな…?」
笑顔なのに、何故か背筋が逆立った。
「コウ!!!」
目が開くと同時に、エドはバッと勢い良く跳ね起きる。
一番に入ってきたのが見慣れない天井だったとか、起きた後もやはり見慣れない風景だとか…そんな事は気にならない。
ただ、意識を失う前に見た、その映像だけが彼の網膜に焼き付いていた。
柱に凭れさせられていた彼女は、いつの間にかその柱から背中を離し、横たわる。
普段は束ねている浅葱色の髪が乱れ、水の流れでも表すかのように床に落ちる。
閉ざされた瞳が自分を映すことのなかった現実に、エドはその光景を思い出して身震いした。
何かを失うと言うのは、こう言うことなのだろうか。
「ここは…病院か?」
キョロキョロと見回すが、視界に入ってくるのは少し色落ちした壁、壁、壁。
きっと、自分の後ろにも同じ物があるのだろう。
どこかの個室で、その独特の空気が、そこが病院である事を彼に教えてくれた。
気を失っていた間の記憶があるはずもなく、不自然に途切れた先が今だ。
何がどうなってここにやってきたのか、ここはどこの病院なのか、自分はどうなったのか。
疑問が浮かんでは未消化のままに消えていく。
そんな中、彼の脳裏を浅葱色が過ぎる。
「コウは…」
身体を動かそうとして、両腕に違和感を覚える。
全く動かない右腕を見下ろし、そう言えば壊れたんだったと思い出す。
次いで左腕を見て…肘の血管から繋がっている管を追い、最終地点にある点滴を見る。
そろそろ終わる頃なのか、中身は殆どなかった。
この分ならば、自分で動こうと無理しなくともこれを取り替える為に誰か来るだろう。
話は、その時に誰かを呼んでもらえばいい。
まだしっかりと動かない思考の中で、彼はそんな事を考えた。
休息を求める身体をもう一度シーツの上に横たえ、シミのある天井を見上げる。
「結局…巻き込んだ…」
危険な目に遭うかもしれないと言う自覚があった。
だから、彼女を宿に置いていったのに…。
後を追ってきたのか、宿から攫われたのかは分からないが、彼女はエンヴィーと名乗る男の手に落ちていた。
傷つけないと言ったあの言葉がどこまで本気なのか分からない。
そんな状況に彼女を残したまま意識を手放してしまった自分の不甲斐無さに、彼は唇を噛んだ。
ガチャリと部屋のドアが開く。
そんな音を、エドは夢うつつの状態で聞いていた。
開いたドアが閉じ、控えめな足音が近づいてくる。
誰だろう、そう思いながらも、瞼が持ち上がってくれない。
やがて、自分の傍らでその気配は止まる。
それから暫くして、額の髪を退けられるような感覚を受けた。
「この唄が、少しでもあなたを癒す事ができればいいけれど…」
小さく呟かれた言葉も、エドの瞼を持ち上げることは出来なかった。
ゆっくりと、そして小さく、優しく。
病室の中に、歌声が響く。
包み込むような、まるで真綿の中に居るようなそんな温かい歌声。
ギリギリのところで保っていた意識が、完全に闇の中に落ちていった。
「あ、コウさん。来ていたのですか」
カチャリとドアを開けて入ってきたロスは、一番に視界に入っていたコウの後姿にそう声を掛けた。
歌声が不自然ではないように止まり、彼女は振り向く。
「ロス少尉」
「あなたもまだ起きたばかりなんですから…無理は駄目ですよ」
「そうですね。すぐに戻ります。彼なら、10分ほど前に眠ったところです」
そう言って、コウはエドの髪を撫でていた手を止めた。
眠っている、と言う表現にロスが首を傾げる。
「意識は取り戻したのですか?」
「恐らく。私が来た時には、もう殆ど眠っている状態でしたけれど」
「そうですか…良かった。医師に伝えてきます」
踵を返すロスを見送り、コウは脇にあった椅子に腰を下ろした。
すぅすぅと聞こえてくる寝息に、どこか安心したように微笑を浮かべる。
「…ごめんね、エド…」
そう呟いて、包帯を巻いている額に唇を落とす。
それを離した所で、寝息を零す唇が目に入った。
少し考えるように動きを止め、結局何もせぬままに身体を起こす。
そして、彼女は彼に背を向けた。
「…ごめんね」
最後にそう言い残し、病室を出て行く。
そんな彼女を追うようにエドがふっと目を開いた事など、すでにその場に居ないコウには知る筈のないことだった。
06.12.05