時舞う旅人  20

図書館で『本の虫』と言われていたのはまだ若い女性だった。
彼女の名はシェスカ。
自宅を本で埋め尽くし、自身もその本に埋まるほどに本をこよなく愛する女性である。
彼女は今まで読んだ文献の全て…一字一句間違えずに覚えていると言い切った。
時間さえあれば、と言ってエドたちの望む本の複写を頼まれてくれた彼女。
シェスカが複写を終えるまでの5日。
コウはエドたちに代わって度々彼女の家を訪れていた。

「興味深い本ばかりね」
「コウさんも本がお好きなんですね。その辺に置いてあるのはどれも難しいジャンルの本ばっかりですよ?」
「…ええ。凄く興味のあるジャンルです。読んでみても?」

本棚に手を伸ばすコウに、シェスカはもちろんですと言う。
彼女の返答に礼を述べて一冊をその手にとった。
タイトルは『旅を生きた民族』。

「珍しいですね、そういった一族の伝記に手を伸ばす方は少ないですけど…。その一族の話は特に」

「どうして?」
「異民族であることを拒まれた歴史から、他国まで渡り歩いた一族。

その歴史は決して綺麗事ばかりではなかったみたいです。その伝記にそう書かれていました」
「………そう」

話をしながらもシェスカの手は動き、確実に紙の上に文字を連ねていく。
本を読むことしか取り柄がないと彼女は言ったが、こんな特技があるなら十分だろうとコウは思う。
取り柄を十分に生かせているのだから。

「そう言えば、コウさんはその伝記を書かれたヴィアド人の方にそっくりです」

思い出したようにシェスカが手を止め、その手をぽんと合わせる。
本棚に背中を預けて数ページ読み進めていたコウが顔を上げた。
そして、その本のタイトルの下…著者の印字の入った部分に目を向ける。
彼女の藍の眼が大きく見開かれた。

「シューリミット…スフィリア………」

唇が、声が震えたことに、シェスカは気づいただろうか。
不思議そうに首を傾げる彼女を見れば、その答えは出ている。
コウはその瞼に影を落とし、そっと眼を伏せる。
半分ほど閉じられた眼から何度もその名前を読み取った。

「………シュウ…」
「コウ、さん?」
「はは…そっか。この本だったのね………」

名前をなぞる指は、何の手入れもしていないのに美しい形の爪を乗せている。
白く細い指先は幾度となくその金字の上を滑った。

「シュウ、兄さん」












「ねぇ、シュウ兄さん。何を書いてるの?」
「ん?コウの成長日記」

悪戯めかして彼はそう答える。
その答えが正しいとは思わなかったコウ。
子供らしく頬を膨らませ、座る彼の背中に飛び乗った。

「嘘吐き。そんなもの書いてないんでしょ?何を書いてるのー?」
「背中に乗ってると危ないぞ?」

シューリミットの言葉にもコウは大丈夫だもん、と返す。
そんな彼女の答えに笑い、彼はその小さな身体を自分の前へと運び、抱き上げた。

「俺たちが生きていた証を残してるんだよ、コウ」
「証…?どうして?」
「足跡は、いつかは消える。だからこそ、形として何かを残したいんだ。旅を生きた、俺たちの足跡を」

そういって彼はガシガシと彼女の髪を掻き混ぜる。
浅葱の髪が絡み、コウは咎めるように声を発した。

「わかんない」
「コウにはわからなくていいよ。でも、いつか読んでくれないか?」
「…何を?」

首を傾げるコウを腕に載せ、彼はその眼を自身の目の高さに合わせる。

「俺たちの足跡。もし、俺がコウの元から消えたら…それを探してくれ。そこに全てを書いておく」
「じゃあ、ずっと探せないね。兄さんは一緒にいてくれるんでしょう?」

そういって笑えば、シューリミットはほんの少しばかり哀しい表情を浮かべて彼女の額に唇を落とす。
次にコウが見た時には、いつもの優しい表情だけだった。

「…そうだな」
「うん!ねぇ、こっちの紙は何?」
「あぁ、それは機械鎧の設計図だ。機械鎧ってのはな………」











ごめんなさい、とコウはその本を胸に抱きしめた。
今の今まで、探すことを忘れていたこと。
兄がそれを咎めることはないとわかっていても、ただ心の中で謝罪を繰り返す。
それが形となって彼女の頬を流れ落ちた。

「コウさん!?」

いよいよその手を止め、シェスカは別の部屋からタオルを濡らして持ってくる。
そうして彼女の元へと駆け寄り、それを手渡した。
ありがとう、と詰まらせながらもお礼を述べて、コウは顔を隠すようにタオルに埋める。

「シューリミットは……私の兄さんなの…」
「その本の著者が…コウさんの?」
「そう。年の離れた…実の兄」
「え?って事は、コウさん…」

シェスカの中で、複数の糸が一本に繋がる。
決して複雑ではない、ごくごく簡単な答え。

「私はヴィアド最後の生き残りよ」

文献では滅んだものだとばかり思っていた。






「ここに彼のサインがあるでしょう?」

そういってコウが指したのは、表紙をめくった裏側。
そこの右下に記された金色のサイン。

「あ、本当ですね。えっと…“シュウ”?」
「私のために、兄さんは自分の名前をシュウと名乗っていた。私の兄さん以外には…ありえない」

サインの上をなぞるのは機械鎧の指。
人工物であるにも拘らず、酷く繊細で柔らかい動きを見せるそれに、シェスカが感嘆の声を漏らす。

「シューリミットさんはその本の中で機械鎧の事を勉強しているって。コウさんの為だったんですね」

美しい兄弟愛です、と彼女は両手を合わせた。
しかし、コウはそんな彼女の言葉に曖昧な表情を返す。

「この本、貸してくれませんか?」
「もちろんです!寧ろコウさんが持っているべき本ですよ、それは!」
「…ありがとう」

押し付けられる形でそれを受け取り、日暮れが近いと言う理由で彼女はシェスカ宅を後にする。
エドたちの隣に借りている宿の部屋へと戻ると、彼女はその本をペラリとめくった。

「『いずれ必要になる時の為に、私はこの設計図を完成させたい』

…やっぱり、兄さんは知っていたんだね。私にこれが必要になるって事。自分が…傍を離れるって事」



いずれ必要になる時の為に、私はこの設計図を完成させたい。
あの子に遺して行けるのは恐らくそれくらいだろう。
どうせなら、愛おしい彼女のために役立つ物を置いていってやりたいと思う。
それが、沈黙のままに彼女を残して逝く、せめてもの償いだから。


強くて弱い、私のたった一人の大切な妹の為に。

06.02.13