時舞う旅人 09
「嫌な天気になりそうだね」
メラノスが空を仰いだ。
漆黒の髪が風に乗って揺れ、彼の端整な顔立ちをより一層際立てる。
どんよりとした黒い雲の向こうに隠れてしまった太陽を思い、コウは彼と同じく空を仰ぐ。
「…そうね。さ、行きましょう。エド達が待ってるといけないわ」
気持ちを切り替えるようにトーンを持ち上げ、コウは窓際に置いた椅子から立ち上がる。
部屋の扉の前でメラノスを待てば、瞬く間に猫の姿に戻った彼は彼女に続く。
「今日は降るな、こりゃ」
空を仰ぎながらそう言ったエドの言葉に同意するようにコウは頷く。
いつものように呼び鈴を引くなり聞こえてくる小さな足音が、今日はなかった。
それに少しだけ違和感を覚えながらも、コウは玄関を開けて進む彼らを追う。
「ニーナちゃん?アレキサンダー?」
真っ直ぐ進んでいく彼らとは異なり、声を上げながら歩くコウ。
しかし、いつまで経ってもニーナの可愛らしい声やアレキサンダーの鳴き声が聞こえる事はない。
「…何なの…」
「…妙な雰囲気だね」
メラノスの呟きに頷き、コウは薄暗い廊下を進む。
そして、一向は資料室を過ぎ、研究室の一角にある扉に差し掛かった。
一目見て、わかった。
背中を覆う鬣のようなそれは確かに彼女の物。
驚くエドとアルの後ろで、コウは壁に背中を預けた。
目を覆う手で前髪を掴む。
――― 頭の中にはいくつもの構築式が浮かんでは消えていった。
覚えたばかりの単語を紡ぐ合成獣。
それはまるで赤子のように、何度も。
その一つが、エドの脳裏に彼女を呼び起こした。
「ニーナとアレキサンダー。どこに行った?」
決定的な言葉を吐き出したエド。
「……君のような勘のいいガキは嫌いだよ」
そう言ったタッカーの声は冷たく、コウには彼が人間だと思えなかった。
「…コウッ!!」
聞き慣れたメラノスの声がフィルターを通しているように遠くに聞こえる。
そんな事を考えながら、彼女の意識は闇へと沈んだ。
「コウ!?」
メラノスの声を聞きとめたエドが振り向く。
彼の視界に映ったのは倒れ行く彼女と、それを抱きとめるメラノスだった。
「大丈夫。気を失っているだけだよ。…コウには少しショックが大きすぎたらしい」
彼女の脈を確かめながら彼は答える。
「これは驚いたな…。人語を喋る猫…更に人間に変身するなんて…」
そう言ったタッカーの口元には笑みが浮かんでいた。
探していたものが見つかった、とばかりに彼らを見つめる。
「少し私にその身体を見せてくれないかい?君さえ居れば私の研究は完璧に…」
「僕が手を貸すとでも?愚か過ぎて救えないね」
タッカーの好奇の眼差しから隠すように、メラノスは彼女の身体を抱き上げた。
そして、彼は冷酷なまでの視線をタッカーへと戻す。
「コウ以外に従うつもりはない」
「従う必要なんてないさ。ただ少し協力してくれればいいんだ、それだけで…」
「いい加減にしろ!!」
タッカーの言葉を遮るようにしてエドが声を荒らげた。
同時に彼の胸元を捻りあげて壁へと押し付ける。
「2年前は妻を…!!今度は娘と犬を使って……まだ足りねぇのかよ!?」
その怒りを助長するような言葉を返すタッカー。
耐え切れなくなったエドの拳が彼の頬を打った。
何度も、強く。
アルがその腕を止める時まで、彼は拳を上げ続ける。
その合間に紡がれるタッカーからの言葉に後悔のそれはなかった。
「………ここはどこ?」
静かに目を開いたコウは、見慣れない天井に小さくそう紡いだ。
「気が付いた?」
視界に横から入り込んでくる黒猫…もといメラノスを見て、コウは頷くように顎を引く。
ゆっくりと身体を動かせば、自分が長椅子に横たわっていた事に気づいた。
「ここは?」
「軍部だよ。あの後、焔の大佐を呼んで…ここに寝かせてもらってたんだ」
「あの後……」
思い出すように額に手をやったコウ。
程なくして目を見開き、メラノスに視線を向けた。
「ニーナとアレキサンダーはどこに?あの男は?」
「…大佐に聞けばわかるかもしれないね」
その答えは彼女の行動を制するものではなかった。
長椅子の背にかけてあった己のコートを掴むと、コウは飛び出すように部屋を後にする。
彼女の速度に合わせるようにメラノスが速度を上げ、床を蹴っていつもの定位置に落ち着いた。
玄関へと向かう黒いコートの背中を見つけ、コウは声を上げる。
「ロイさん!!」
「!…コウ、気が付いたのか…」
僅かに安堵を含ませた言葉に答える事なく、彼女はロイの正面に入り込んでその着衣を握る。
「彼女達はどこに!?」
「…軍が身柄を拘束している。君は身体を休めて…」
「私の身体なんてどうでもいいわ!!彼女達に会わせて!!」
宥めるように、ロイの隣に居たリザが彼女の肩を抱いた。
しかし彼女は頭を降るだけで、彼の着衣を放そうとはしない。
「コウちゃん…気持ちはわかるけれど、今は自分の身体を考えないと…」
「そんな事してたら…間に合わないのよ…っ!!」
叫ぶようにそう言って、コウは彼の着衣を振りほどいた。
そして、そのまま雨の降り続ける外へと飛び出す。
「コウ!」
背中に掛かるロイの声に、彼女が立ち止まる事はなかった。
軍部の前の階段を半ば転がるように駆け下り、そのままの速度で走り出す。
彼らがそこに居た事にすら、コウは気づいていなかった。
「…コウ…目を覚ましたんだな」
ぼんやりと小さくなっていく背中を見ながら、エドが呟いた。
その声は儚くも雨音に掻き消される。
「“見た”の?」
肩に乗ったメラノスは落ちないようにコートに爪を立てながら、彼女の耳元で問う。
息を切らせながらも、コウは頷いた。
「…っええ」
「死ぬ?」
「それもあるけど…止めればまだ戻せるのよ…っ」
自分の勘を頼りに街中を駆けるコウ。
彼女は必死だった。
長く続く塀の横を走り、その角を曲がった時 ―――
彼女の足元で雨以外の液体が跳ねた。
「―――― っ!?」
水溜りを赤く染めるそれに、思わず足を止める。
その向こうには二度と動く事のないモノが横たわっていた。
「…穏やかじゃないね、これは…」
ぽつりと呟いたメラノス。
コウは声もなくその建物を見上げる。
そこは、何度も通ったタッカーの家だった。
「……ニーナ…ッ!」
再び足を動かし、屋敷内へと駆け込んだ。
その道筋を照らすように所々に横たわる人であったものの横を通って2階へ。
薄く開いた扉を壊すように勢いよく開く。
横たわるそれと、合成獣に手を伸ばすガタイのいい男。
「やめてっ!!」
搾り出すような声を上げたコウに、男は手を止めて振り向いた。
額に大きな傷のある男。
「何者だ…」
低く告げられた言葉を聞きながら、コウは床に膝を付く。
上がりきった呼吸を整えるように何度も胸を上下させ、それでも口を開いた。
「待、って…も、少し…だけ……私に時間を…っ!」
05.09.21