Another World 37
軍から支給されて今まで使われる事のなかった青い軍服に袖を通す。
コウの場合は普段にはそれを着ないと公言しているために、支給されたのは正装のみ。
「スカートは何年ぶりだ…?」
少なくとも、ここ10年は着なかったはずだ。
鏡を前に、暫し過去の事に記憶を馳せる。
だが、ふと耳に入った秒針の音に我に返ると、ソファーにかけていた黒いコートを手に自室を後にした。
「お、コウ。おはよ」
1階へ降りると、ルシアがソファーに深く腰掛けて新聞を読んでいた。
メガネをかけて長い足を組みながら新聞を捲る姿はかなり様になっている。
と言うよりも、そこら辺の女性が放っておかない訳だ…と納得するには十分だった。
特に珍しい光景ではない事に、コウは「おはよう」といつもの挨拶を交わす。
が、ルシアの方からすれば珍しい事があった。
ガラス越しにルビーの様な赤色がコウを映す。
「…着るんだな、軍服」
「ん?ああ、初めの約束だからな。それに…俺も、今日それに逆らうほど人間棄ててねぇよ」
そう言いながら、先程全体を確認する為だけに袖を通した軍服の上着だけを脱いだ。
それをコートと共に椅子の背にかけると、キッチンへと向かう。
その背中を見送ると、ルシアはメガネをテーブルの上に置いた。
普通に生活をする分には問題ない程度の視力はある。
だが、それは活字を読むとなると話は別。
元々イヌ科の動物は目が弱いと言われる所為であろうと、コウが買い与えた物だった。
軽く身体を伸ばすと、ルシアは狼へと姿を戻す。
毛並みを整えるべく一度身を震わせて…そして朝食の準備に掛かるコウの元へと歩き出した。
フライパンを持つコウの足元に纏わりつく。
「ルシア?珍しいな、お前が纏わりついてくるなんて。腹減ってるのか?」
頭を撫でる程度は嫌々ながらもさせてくれるが…。
フリスビーで遊んでやろうとした時は丸一日何も話さなくなってしまったのは、まだ記憶に新しい。
そんな彼の思わぬ行動に首を傾げながらも、コウは腹に溜まる程度の食事を作り終える。
ルシアの分を足元に用意してやると、一度コウを見上げた後静かに食べだした。
彼女も彼を足元に食卓について食事を取る。
その間に新聞に目を通すが、ふとある事に気づいた。
「…なぁ、エンヴィーは?」
「寝てる」
「ふーん…」
どこかコウとは違う方に視線をやりながら答えたルシアに疑問を抱く事はなかった。
この時間にエンヴィーが寝ていると言うのは滅多にある事ではない。
仕事の時はまだしも、この家に帰っている時にはいつも起きていた。
ゆえに僅かな疑問は残ったのだが…。
「そんな日もあるか」
そう納得して早々に食事を終える。
自分の使った食器類を持ち上げるとキッチンへと消えた。
「ルシア、今日は仕事の方はないんだが…遅くなる」
「…わかった」
それだけを言うと、コウは壁に掛けられた時計を見上げ、そして家を出た。
残されたルシアは玄関で彼女の背中を見送り、そして再び人型に変化する。
そして、放り出したままだった新聞の続きを読み出した。
おはようございます、スフィリア大佐。
そんな声に軽く片手を上げる事で答えながら、コウは自室に辿り着く。
あのまま放り出してきた自室は、乱れていたはずの書類を綺麗に整頓されてその姿を残していた。
処理済、未処理、期限間近…そんな感じで分けられたそれぞれの山の一番上に目を通し、苦笑を浮かべる。
自分が頼んだのは戸締りだけだったはずだが、ティルが整理して帰ってくれたらしい。
いつもならばそこまで終わらせるのが当然だと言うのに、よほど余裕がなかったんだなと自嘲した。
「おはようございます。お身体はもう大丈夫なのですか?」
「あぁ。悪かったな、関係ない書類まで整理させて」
「いえ…昨日の分だけでしたので」
部屋に入ってきたティルの姿も、コウ同様に青い軍服。
一瞬、いつもとは違うコウの服装に驚いたようだったが、すぐにそのポーカーフェイスを取り戻していた。
その辺りの変化は流石…と言ったところだろうか。
「式は午後1時より始まります。それまでに、ある程度仕事を片付けておくようにとの指示がありました」
「わかった」
会議での報告を済ませると、彼女は早々にコウの執務室を離れる。
彼女自身の仕事を片付ける為だろう。
期限間近と言う付箋の付いた書類の一番上の物を前に置き、コウは深く息を吐き出す。
式が午後からならば、何も朝から軍服を着てくることはなかった。
服装以外はいつも通りなのだが、挨拶してくる周囲の視線が違うとは思ったのだ。
自分の格好を忘れていたな…と、どこかぼんやりと考えた。
「あー…何か口寂しいなぁ」
私服の時ならば上着のポケットに煙草を入れておく習慣がある。
だが、今日は服装が違う所為かそれを忘れていた。
こんな時こそ欲しいのに、と文句を言ったところでそれが手に入るわけでもない。
僅かに苛立つ自身を気のせいだと思い込み、デスクに置かれたペンのキャップを外してくるりと回す。
理解しなければと思えば思うほどに別のことが浮かんでは消え、いつものようには進まない。
それでも、とりあえず午前の時間でその山を処理済の山に重ねる事には成功した。
マース・ヒューズ准将。
殉職にて二階級特進。
しめやかに営まれた彼の葬儀には、涙に声を震わせるエリシアの声が響いた。
Rewrite 06.10.29