Another World 36
テーブルの上で揺らぐコーヒーの湯気と秒針以外、この部屋が時を刻んでいる事を教えるものは無い。
ただ沈黙が室内を支配する中、それを拭い去るように深く息を吸い、そして口を開いた。
「知ってるんだ」
ポツリと漏らした声は普段の音量よりも少し小さいくらい。
けれど、静まりきっている室内には十分に響いた。
「何を?」
「この世界の、未来を」
エンヴィーの問いに対し、言葉を詰まらせながらも答える。
俯くコウの表情は彼から見えることは無い。
しかし、彼女の足元に伏せているルシアからはその影を落とした表情が見えていた。
「未来って…どう言う事?」
「お前と会った3年前のあの日、俺はこの世界に足を踏み入れた」
二人の出会いとなったあの日は、まだ記憶に残っている。
薄暗い路地裏、満天の星が見下ろす中で二人は出会った。
こうして表現してみれば中々雰囲気のある出会いのようにも思えるが、実際はそんな綺麗なものではない。
一触即発の空気漂う中、お互いに腹のうちを探るように対峙した。
「向こうで死んで、こっちの世界にやってきたんだ」
「死んだ…?」
「ああ。確認はしていないが…真正面から暴走車に突っ込まれた。生きてりゃ、それこそ化け物だな」
まぁ、大差はねぇが、と彼女はポケットに入れていた煙草から一本咥える。
今日ばかりは何故かその煙が恋しくなったのだが、生憎ライターは持ち合わせていないようだ。
自室に行けばあるのだが、動くのは億劫。
仕方なく煙草の端を歯で噛み潰すだけに止める。
「お前は異世界の存在を信じるか?」
「…馬鹿馬鹿しい質問だね」
「…だろうな。俺も、現実的な人間だったから信じてなかったさ。自分が、二つの世界を渡るまでは」
「………コウの言い方だと、まるで自分が異世界から来たみたいに聞こえるよ」
怪訝な表情を浮かべる彼に、コウはそれを待っていたとばかりに笑みを浮かべた。
その強気な笑みでさえ、目の奥の悲しみを隠し切れていない。
「俺にとっては紙上の世界だったものが、急に現実になったんだ」
信じられるか?と問いかける。
だが、それに肯定も否定も出来るはずがない。
自分はそんな経験をした事はないのだから。
「指先から血が流れれば痛覚はある。ピンチにヒーローが助けてくれるような展開だって無い」
「当たり前だよ。所詮、自分の身は自分で守らなきゃ生きていけないんだからね」
「あぁ、そうだ。それが出来ない者に残されているのは―――死だ」
そう言ってコウはそっと瞼を伏せる。
脳裏に浮かぶのは、先程網膜に焼き付いてしまったあの光景。
だらりと投げ出された四肢や、地面に広がる赤は、これから先彼女の記憶から消える事は無いだろう。
それを脇へと追いやるように首を振り、コウは苦笑に似た笑みを浮かべた。
「エドワード・エルリックと言う少年、アルフォンス・エルリックと言う少年。
彼らが旅し、自身の身体を取り戻そうと躍起になる事…全部知ってた」
国家試験、リオール、綴命の錬金術師、人と動物の合成獣、第五研究所、マース・ヒューズ殺害。
順を追って、それを口に連ねていく。
「全部、知ってたんだ。知っていた上で…助けられたかもしれない命を見殺しにした…」
指を絡め、まるで祈りのように額へと押し当てる。
口元だけは笑っていたとしても、纏う空気は悲哀に満ち溢れている。
いつもの調子ではない彼女に、エンヴィーは言葉を失いただ彼女を見つめた。
「自分がこの世界に存在する理由がわかんねぇんだ。だけど、死ぬ事もできない」
ギ、と腕に爪を立てれば、存外に深く食い込んだそれが肌を突き破る。
溢れ出た鮮血がその白い肌の上をすべり、絨毯の上へと赤い滴を落とした。
だが、その傷跡は瞬く間に肌に溶け込んでいき、やがてそこには赤い一筋が残るのみとなる。
傷を癒すこの身体は、自分自身を殺す事すら許してはくれなかった。
「一つ聞きたいんだけど…コウも、賢者の石が中にあるの?」
「さぁ…どうだろうな。自分で胸を掻っ捌いたことはないからわからねぇ」
「…物騒なこと言うね」
その言い方に対して苦笑を浮かべるエンヴィーに、コウも似たような笑みを返した。
そして、足元に伏せているルシアを撫でる。
「ねぇ、コウ。おチビさんたちは賢者の石に近づくの?」
「さぁな。それは言えない」
「知ってるなら教えてくれてもいいと思うけど?」
「教えるくらいなら、自分の力で未来を変えてるさ」
結局、未来を知る自分とて、この世界と言う大きな流れの中の一歯車に過ぎないのだ。
たとえ、それが動かなくなったり…予想外の動きをしようと、流れはどこかで修正されていく。
「…面倒だね、色々と」
「そうだな。考えすぎて頭が狂いそうだ」
自嘲気味に笑うコウ。
そんな彼女に向けて、エンヴィーはその口角を持ち上げた。
「俺が憎い?マース・ヒューズを殺した俺が」
憎い、と答えられたら、自分はどうするのだろう。
ふと、そんな事を考えてみる。
だが結局は何も変わらないのだろうと思いなおした。
自分は、彼女の意見一つで自分のみの振りを変えるような善人ではない。
「…憎いのはお前じゃない。あの人に生きていて欲しかったのは、俺の知る人とよく似ていたから…それだけだ」
ヒューズと言う人間個人も無論好きな部類には入る。
しかし、それはエルリック兄弟や、軍の人間たちへの感情と大差は無い。
それでも彼に死んで欲しくなかったのは、彼がティルとよく似ていたからに他ならないのだ。
「…憎めばいいのに。一番、何も考えずに済む感情だよ」
道徳だとか未来だとか、そんな物を全部捨て去る事のできる醜くて、でも自分自身を守ることの出来る感情。
エンヴィーの言っている事はコウにもよく理解できた。
彼女は、それを糧に生きてきた人間だから。
「…お前を憎んでも仕方ないよ。殺せない人間では、気も晴れない」
「殺す事前提に考えるんだ?」
「憎んだ相手を前にどうするかなんて…限られてるだろ?」
クスリと笑った彼女には、徐々にいつもの調子が戻りつつあった。
一つ一つ言葉を紡ぐ間に自分の中を整理して行ったのだろう。
すでに冷めてしまったこげ茶色の液体を喉に流し込んだところで、家の中に電話のベルが鳴り響く。
ビクリと肩を揺らしたのは、他でもないコウだった。
「…はい、コウ・スフィリア。―――――少し、待ってくれ」
そう言うと、コウは受話器を置いてリビングを出て行った。
後に残されたのは、中途半端に残ったコーヒーと、複雑な表情を浮かべるエンヴィー、そしてルシア。
パタンと扉を閉ざす音が、やけに耳に響いた。
「…ルシアは知ってたの?」
「…知っていたと言うのもあるが、言動の端々で気付いた」
「なるほどね。変わった人間だとは思ったけど…まさか、異世界の人間だとは思わなかったよ」
正直な話、相手がコウでなければ信じなかっただろう。
この錬金術の発達したご時勢に、そんなファンタジーな話を信じる方がどうかしている。
空間移動の概念はあれど、それを実践できた人間などただの一人も居ないのだから。
「お前らはこれからどうするんだ?」
「どうって…何?」
「受け入れるか、否か」
先程までコウが座っていたソファーの上に乗り、ルシアがエンヴィーに向けて問いかける。
回答拒否など許さないとばかりに睨まれ、彼は肩を竦めた。
「別にいいんじゃない?異世界だろうが、何だろうが。結局さ、こっちに居るのは化け物ばっかりなんだからね」
「…そうか」
彼の返事に頷き、ルシアは肩の力を抜く。
エンヴィーがそんな細かいことに拘る性質ではないということは分かっていた。
だが、こうして本人の口から聞けば少なからず安堵するのも無理のある話ではない。
彼女には、この世界での自分の居場所が必要だった。
「…コウを裏切るな。強く見せているが…実は弱い娘だ」
「あぁ、そうだね。この程度で揺らぐのは弱い証拠だよ。ま、そこらへんの人間よりは遥かにマシだけど」
「―――わかった。じゃあ、明日」
ガチャンと受話器を下ろし、コウは一息ついた。
先程の電話はティルからのものだ。
尤も、コウには予想内の事。
カチッと乾いた音がしたかと思えば、彼女の自室に煙草の煙が舞い上がる。
それを吸い、そして吐き出し、彼女は呟いた。
「…明日、か」
Rewrite 06.10.24