Another World  35

何気なくカレンダーの日付を見て、コウの手が止まる。
記憶を探るも大した情報は出てこないが、何故か頭の片隅で鳴り続ける警鐘。

「大佐?」

ペンの音が止まった事に気付いたのか、ティルが資料を片手に歩み寄ってくる。
デスクに向かうコウの顔を覗きこむように、少しばかり腰を折った。

「顔色が悪いですよ。お疲れですか?」
「…いや、大丈夫だ」
「大丈夫って…そんな顔色じゃありませんよ。今日の仕事はこれくらいにした方がいいんじゃないですか?」

もうこれだけですから、と手に持っていたそれを少し高く持ち上げる。
それを見たコウはふと考えるような仕草を見せ、次いで頷いた。

「そうだな。それはセントラルに届ける分だろ?」
「あ、はい」
「それ届けて直帰する」

貸してくれ、と彼女が差し出す前にそれを受け取ってしまう。
責任感のある彼女の事だ。
返事は聞くまでも無く「これは私がしておきます」だろう。
それを聞いてしまう前に、コウは資料を受け取ってコートを着込む。
襟の下に入り込んでしまったほんの少しの赤髪を指で掬い、デスクの脇に伏せるルシアを振り向いた。

「ルシア、帰るぞ」

そう呼べば、彼は心得たりとばかりに尾を大きく振り、自分の近くにあった彼女の鞄を口で咥えて来た。
牙を立てない辺りの心配りが嬉しい。

「んじゃ、もう中尉も帰るようにな。戸締りだけ頼む」
「分かりました。お気をつけて」

そんなティルの声に見送られながら、足早に仕事部屋を後にする。
そのコウの表情は険しかった。

















「遅かったか…」
「ええ、遅かったわね。何をしていたの?」

コウの呟きに、自身の額に刺さるそれを抜き取りながらラストが答えた。
彼女とコウとの会話には矛盾があるが、本人達はあまり気にしていないらしい。

「もう少し早く来てくれれば中佐を逃がす事もなかったのに」

ラストの言い分はこうだ。
無論、コウには全く別の考えがある。

「(今日だと知ってたら何が何でも家に帰らせたってのに…!)」

床に点々と続く血の跡を見下ろし、忌々しげに舌を打つ。
彼女がここへ来たのはラストの手助けをすることが目的ではない。
寧ろ、その逆だ。

この血の主―――マース・ヒューズを助ける事。

色々と考えて悩みぬいたが、やはり彼と言う存在を失いたくないと思った。
だからこそ、自分に出来る事をしようと心に決めたのは、数日前のあのエリシアの誕生日だ。
彼女の笑顔を見て、自分と同じ思いをさせたくないと心から思った。

「何もかも…結局は無駄だってわけか…」

呟いた声は、辛うじてコウ本人の耳にのみ届く。
いつの間にか、ヒューズから受けた傷の治ったラストが彼女の隣に来ていた。

「コウ、エンヴィーと合流しなさい」
「…あぁ、分かった」

道は、一つしかないらしい。















ニタリと笑うような月が見下ろしている。
普段ならば綺麗な三日月だな、などと余裕も持てただろうが、今のコウにとってはそれすらも苛立った。
コツ、コツ、と言う足音が無音の世界に響く。
徐々に聞こえてくる話し声に彼女は表情を無にした。

「…やっと来たの?」

背中を向けたままの『彼女』が、そう声を上げた。
振り向いていないにも拘らずコウの接近に気付いたらしい。
自分に向けられているのだと気付くまでそう時間は必要なかった。

「…コウ!来るな!!」

『彼女』の声でコウの存在に気付いたのは、鮮血を溢れさせる肩を押さえたヒューズ。
彼は電話ボックスの中から焦ったようにそう叫んだ。

「ロイに伝えろ!軍がやべぇ!!このロス少尉は敵だ!」

そんな彼の声に、彼女…ロスはにっこりと笑みを深めた。
そして、屈託の無いと形容できる笑顔でこう言ったのだ。

「逃げる必要なんてないよ?コウを殺すなんて、それこそ有り得ないから」

安心していいよ、と笑う彼女の手の中の銃口はヒューズを睨みつけたまま。
彼女の言葉に彼は怪訝な表情を浮かべた。
その意味を理解しかねたのだろう。

「…見逃してくれと言っても…無駄か?」

俯き加減のコウの表情は見えない。
ただ、いつもよりもその声が暗いということだけは分かった。

「もちろん」

迷う暇も無い返答に、コウは「そうか」と短く答える。
そして、漸く顔を上げた。

「出来る事なら、何も知らないままに平和に生きていて欲しかった」
「…コウ?お前…」

今日初めてヒューズと視線を合わせる。
初めて見る彼女の無の表情に、彼は眉を寄せた。
悲しみも、目の前のロスのような楽しみも無い。
ただ、虚無を具現化したような表情。

「話はそこまでにしてもらおうかな」

ロスはスッと身体をずらすと、そう言って銃を握りなおす。
彼女の身体が入り込んだことにより、コウからはヒューズが、ヒューズからはコウが、それぞれ見えなくなった。

「最後くらいはイイ夢を見せてあげようか」

ロスの姿が錬成反応に似たそれを纏って変化する。
ヒューズの眼に映ったのは、自分の最愛の妻。
向けられる銃口から逃れる事も出来ず、偽りと理解しながらも妻を傷つける事も出来ず。
銃声が鳴り響くまでのその時間が、やけに長く感じた。








「人間って弱いなぁ」

堪えきれない、とばかりに彼女…いや、エンヴィーは笑い出す。
未だその姿はグレイシアを模したままだ。
彼は血溜まりに腰を落としたヒューズに背を向けた。

「何て顔してるの?」
「――――戻れよ」
「この姿が気に食わない?コウ、この女の事気に入ってるみたいだったよね。確か。あぁ、それを言ったらこの男もか」

クスクスと笑う彼は、未だに自身の姿に戻ろうとはしない。
尤も、彼の本当の姿など知らないのだから、『戻る』と言う表現は少しおかしいのかもしれないが。

「戻れ。今すぐに、だ」

笑顔を消す事無くコウに近づいていたエンヴィーは、そんな低い声と共に自身の視界がぶれるのを見た。
そして、次の瞬間には背中に強い衝撃を受ける。

「っコウ!?」
「戻れ!これ以上……っ」

バシンと音を立ててエンヴィーがいつもの姿に戻る。
それに気付くと、彼女の声は尻すぼみになって途中で途切れた。
地面に彼を押し付けたままの状態で、コウは興奮を押さえるように何度も深呼吸を繰り返す。
それは、彼にとっては十分すぎる隙だった。

「―――っ!」

胸倉を引っ張られたかと思えば、次いで襲ってくる背中への強い衝撃。
一瞬呼吸が詰まり、思わず咽た。

「隙ありすぎ。いつものコウはどうしたのさ」
「…悪ぃ」
「………ま、これでさっきのチャラにしておいてあげるよ」

パッと胸元が彼の手から解放されると、コウはもう一度だけ深く息を吸い込んだ。
背中に伝わる冷たいアスファルトが、彼女の思考を覚醒させていく。
それと同時に、その場に漂いつつあった臭いも鼻に届いた。

「…帰る」

むくりと起き上がったコウは、ただ一言そう言うとさっさと歩き出してしまう。
どこかに車を停めてあるのか、彼女の手にはすでにキーが握り締められていた。
凹凸のあるそれを強く握り締めている所為か、その白い指を伝って赤が1滴落ちた事に気付くエンヴィー。
軽く眉を寄せるも、彼女の心境を理解する事など彼には出来そうにない。
彼は溜め息の後、何を言うでもなく、沈黙のままその背中に続いた。

Rewrite 06.10.21