Another World 21
パサリと目の前に置かれた紙切れ一枚。
普段ならば確実に手渡すティルが、この時ばかりはデスクの上に半ば投げる感じでそれを置いた。
その違いに、コウは持っていた書類から視線を外し、彼女を見上げる。
「ご存知の上でこの仕事を私に?」
彼女は眼鏡の奥にその鋭利な双眸を隠し、そう紡ぐ。
コウは彼女が手放した紙切れを拾い上げて中身を読んだ。
「…知っていた、と言うよりは疑っていたと言う方が正しいだろうな」
「ならば、何故その事を話してくださらなかったのですか?」
「必要が無かった。不確かな情報を与えて、真実を見落とされるのは困るからな」
まるで興味が無いとばかりに淡々と答え、コウは持っていたそれに万年筆でサインを刻む。
そんな彼女の反応に、ティルは肩を怒らせた。
「私を試した、と言う事ですか」
「…否定はしない」
「何故…?」
仮にも上司に向かって、この行動だ。
自分以外の人間なら即刻首でもおかしくはない、とコウは心中で苦笑を浮かべる。
「上司の命令は絶対、だろ?」
自分で言って、笑いそうだった。
今までコウが上司を上司と敬った事などただの一度も無い。
無理やりに挙げるとすれば、大総統くらいだろう。
権力で押さえ込まれそうになったとしても、それを逆に押さえ込んでしまうだけの実力が、彼女にはあった。
「絶対に納得のいかない命令には従いかねます」
ティルは真っ直ぐに彼女を見て、そう言った。
迷いの無い言葉の後、室内には沈黙が走る。
それを破ったのは、意外と言うか予想通りというか―――コウの笑い声だった。
「…はは!思った通りの頑固者だな、ルシェリ中尉」
「な…っ!」
「うん。いいよ、従わなくて。納得出来ない命令は出すつもりないし、今後中尉を試すような事もしないから」
ごめんな、と頬を掻くが、言葉を整理しかねているティルは口を開いたまま静止している。
次の瞬間にはサッと頬を染めて顔を逸らしていたが。
「今回の件は…俺が、部下を信用出来るか知りたかったんだ」
「…変わった上司ですね、本当に…。普通、試すような面倒はしませんよ」
苦笑を浮かべつつもそう言った彼女の声に、先程のような強張りはない。
誤解というほどではないかもしれないが、兎に角彼女自身の緊張も解けたようだとコウも安堵した。
そして、彼女から差し出された紙切れ…もとい、報告書を手に持ち上げる。
「…やっぱ、ここ数年帰省していない、か…」
「ご両親や付近の方にも聞きましたけれど、やはり同じでした。タッカー氏と結婚以来村には戻っていないそうです」
「通りで一枚に収まってるわけだな」
報告書と言えばそんなに短く収まるものではない。
ティルの性格からして妥協と言う事はまずありえないから、報告すべき事があまりにも少な過ぎたと考えるのが普通だ。
しかし―――
「タッカー氏と結婚以来数年帰省なし。何とも単純明快な報告書だな、これは」
思わず口角が持ち上がってしまうような代物だ。
本当にこれ以外に書く事が無かったのだと言う事がよくわかる。
一見ふざけているような報告だが、コウにとっては笑いの種。
クスクスと堪えていた笑いは、最終的に腹を抱えるまでに至った。
その傍らですでに調子を取り戻したティルがコウの処理した仕事を纏めている。
「(…いつもの風景に戻ったな)」
事の成り行きを沈黙と共に見守っていたルシアが、心中で呟いた。
ゴロゴロ…と雷雲の唸り声が耳に届く。
それを聞いたコウは、そっと窓の外を見上げた。
そして不意にガタンと椅子を揺らす。
キャスターのついた椅子はスッと後方へと下がった。
「大佐?」
「ちょっと出かけてくる。ルシア、来い」
「お出掛けならコートをどうぞ。今日は午後から降るらしいので傘もお持ちになった方がいいですよ」
「ああ、そうするよ」
何も聞かず、ティルは傍らにかけてあったコートと、デスクの端に置いてあった資料を彼女に手渡す。
それを受け取ったコウは、ティルと資料を交互に見つめた。
そして口角を持ち上げて笑う。
「話のわかる部下で助かるよ」
鞄にそれを押し込みつつ、コウは執務室を後にした。
「今日…何かあるのか?」
助手席に伏せるルシアがそう声を掛ける。
トントンと規則的にハンドルに指を打ち付ける仕草が、彼女の苛立ちを表していた。
零れ落ちたルシアの声に、ピタリと音が止む。
彼女の視線が一瞬だけ彼の方を見下ろした。
「…記憶が間違って無ければ、恐らく今日だ」
何を、と言う必要など無い。
ルシアには前にタッカーの家を訪れた後、「近々タッカーが馬鹿をする」とだけ話してある。
それと今の言葉が正しく結びついたのだろう。
頭のいい奴だ、と思いながらも、コウの頭はこれからの事に向けられていた。
彼女の思考を悟ったのだろう。
ルシアはここまで彼女を悩ませるタッカーに疑問を抱く。
「あの男は一体何をするんだ?」
「………錬成だ」
呟いた声にまさか答えが返ってくるとは思わなかった。
狼ながらに驚きの表情を露にする彼に、コウは静かに言葉を続けていく。
「娘と…犬を錬成する。合成獣だ」
「……………人語を話す合成獣の実態はそれか…」
元々頭の良い彼だ。
これだけ言えば十分だったらしい。
だが、頭の回転が良いが故に浮かぶ疑問があるのもまた当然の事。
「何故、コウがそれを知っているんだ?」
核心を突くその言葉を誤魔化す術は無い。
コウは真剣に自分を見てくるルシアを一瞥し、溜めた息を吐き出す。
「俺はこの先数ヶ月の未来を知ってる」
「未来を…?」
「ああ。俺が関わってくる事で多少は変わってるが…本質は、同じだな」
「どう言う事だ?」
ワケがわからない、と言った様子のルシア。
しかし、今は彼に事細かに一から説明している時間は無い。
「詳しい話は帰ってからだ」
言い終わると同時に、アクセルを踏み込んだ。
Rewrite 06.08.16