Another World 08
「時に、コウ」
初めての一仕事を終えたコウが、エンヴィーのそんな言葉に足を止めた。
何だ?とでも言いたげな視線を彼へと向け、彼女はきょとんとした表情を浮かべる。
そんな彼女に、エンヴィーはにこりと笑った。
「明日試験だけど、ちゃんと勉強してる?」
笑顔の裏には「落ちるなんて許さない」という思いが篭められているように感じるのは、きっと彼女だけではない。
今、彼の言葉で漸く思い出したコウは、とりあえず締まりの無い笑みを見せてみた。
冒頭のような会話をしたのが、試験の前日。
そして今日はまさにその試験の当日だった。
屈強な肉体を誇るような人から、マッチ棒を通り越して爪楊枝のような人、もしくはごくごく普通の人。
人間観察だけで一日楽しめそうだと、コウは自身の視界に入り込む人間を見て口角を持ち上げた。
彼女の手元ではペンが驚くべきスピードでクルルクルルと回っている。
暇を持て余している人間がよくするペン回しという奴だが、それにしても速過ぎだ。
彼女の手元を見た者は一瞬ぎょっと目を見開き、その後彼女の顔を見て頬を赤らめつつ離れていく。
コウは、そうして過ごしていた。
試験官と言う腕章をつけた軍人が部屋に入ってくるその時まで。
試験が行われている間、ルシアは暇を持て余していた。
軍の管轄で行われる国家資格の筆記試験。
動物を連れて入れるはずも無く、建物まで来たはいいが彼だけは外に置き去りだった。
コウは帰っても構わないと頭を撫でてそう言ってくれたが、ルシアにその気は無い。
ただ早く試験が終わるようにと、動きが早まる筈も無い時計の秒針を睨みつけていた。
「あ、犬!」
廊下を曲がってきた女性がそう声を上げた。
嬉しそうなのは、彼女が動物好きであることを示しているようだ。
友人か、もしくはただの同僚か。
どちらかはわからないが、彼女はもう一人女性を連れてルシアの元まで歩いてくる。
「誰の犬だろう?可愛い~っ」
「でも、何でこんな所に犬がいるのかしら」
連れられた方の女性が場所を確認するように、彼の伏せる脇にあった扉を見た。
その上につけられたネームプレートを見て、納得したように頷く。
「ここで騒ぐとお叱りを受けるわ。今試験中よ」
「試験…?」
「ほら、国家錬金術師の筆記試験」
だから早く離れよう、そう言いたげに女性は連れの腕を引く。
名残惜しそうにルシアを見下ろす女性は、この場から離れたくないのだろう。
自分に向かって手が伸びてくるのを横目に捉えると、ルシアはふいと顔を逸らした。
構ってやるつもりなど毛頭無い、という風に。
「人に懐かない犬なのかな…」
伸ばした手のやり場に困りつつ、少し寂しげにポツリと呟く。
そんな声の後、ルシアの耳にガタンと椅子を引く音が届いた。
一つ目のそれに誘われるように、壁一枚向こうの部屋の中では次々に人が立ち上がる音が聞こえる。
漸く終わったか、とルシアは前足の上に乗せていた顔を持ち上げた。
目の前の扉からコウが顔を覗かせることを期待して、自然と尾が揺れる。
そんな反応が女性を喜ばせようと、彼の知った事ではない。
そして、カチャリと両開きの扉が開かれる。
一番に部屋を出てきたのは、酷く目を惹く赤髪の人物―――つまりはコウだった。
ルシアは即座に伏せていた体勢から身体を立ち上がらせ、彼女の足元に歩み寄る。
「お。待たせたな、ルシア。帰らなかったのか」
ふっと口元を綻ばせ、コウはルシアの頭を撫でる。
そんな彼女を見て、離れようと声を上げていた女性が「あ!」と声を発する。
「スフィリアさん!」
「ん?」
名前を呼ばれ、コウは彼女の方を見る。
何故自分を知っているのかわからなかった彼女だが、不意にこの試験の申し込みの時を思い出した。
「あぁ、あの時の受付の」
「覚えてくださってたんですか!?嬉しいです!」
「ねぇ、誰?」
「ほら、前に話した人よ!ね、言った通り格好いいでしょう!?」
本人を前に、よくまぁはっきりと言うものだ。
尤も、コウとてこのような反応は慣れたものである。
いつものように、受付嬢の連れに向けて笑みを浮かべた。
無論それだけで十分である。
「試験はどうでしたか?」
受付嬢に尋ねられ、コウは視線を彼女に戻す。
そうして、ニッと形容できる笑みを向けた。
「ご想像にお任せするよ。じゃあね」
ルシア、と相棒の名前を呼び、コウはそのまま出口へと歩き出す。
多くを語ろうとはしない彼女に、女性二人は頬を染めて固まるしかなかった。
「で、本音のところどうだったんだ?」
「あぁ、楽勝だったよ。時間が余りすぎて寝てたな」
人気の無い道に出たところで、ルシアがコウに尋ねる。
彼女は彼の言葉にそう答え、肩を竦めてみせた。
「今年の試験は去年よりも難しかったらしいぞ。歩いていた軍人が話してた」
「ふぅん…あれで、ねぇ。まぁ、久々に頭を使わせてもらったし、良しとしとくか」
コウが結果を案じるような細い神経を持っているわけが無い。
笑いを含ませつつそう言って、彼女は足を速めた。
恐らく、帰りが遅いと苛立っている仲間の為にも、一刻も早く帰らなければ。
「今年の受験者はどうだね?」
「大総統」
驚いたように振り向くも、敬礼しつつ男は資料を差し出した。
大総統と呼ばれた眼帯の男性は、それを受け取り目を通していく。
「筆記合格者の中でも、目ぼしい者は3名ほどです。その中でも1名はほぼ確実かと」
「誰だね、それは」
「受験番号134番です。試験官の話によると、開始20分で机に伏していたとか」
あまりにも早すぎたので覚えていたそうです。
そう彼は付け足した。
試験時間は90分。
無論、国家資格の筆記試験なのだから簡単である筈も無く、現存する国家錬金術師でも平均60分は掛かる代物だ。
「…その者の成績は」
「…それが、その………満点です」
筆記試験の結果を記す欄に書かれた『Perfect』という一単語。
まだ見ぬ彼女の錬金術師としての能力に期待が掛かるのも決して無理な事ではなかった。
「この者の実技試験監督には私も参加しよう」
「は。その様に手配しておきます」
大総統から資料を受け取り、彼は再び敬礼して彼を見送った。
134番。
それは、コウ・スフィリアの受験番号だった。
Rewrite 06.06.17