Another World  06

スラスラと必要事項を記入し、最後に自身の名をサイン部分に連ねる。
これで申し込みは完了。
あとは試験に向けて全力を尽くすのみである。

「よろしく」

にっこり、とは形容するのは難しいが綺麗な笑み。
受付の軍属女性は頬に朱を走らせつつ、機敏な動きでコウの差し出した書類を受け取った。
元気のよい返事を聞きながらくるりと踵を返す。
背中に一筋赤い髪を流した彼女は、フロア内では一際目立つ存在だった。
コウは周囲の視線を感じながらもそこを横切り、軍を後にする。
その場に彼女が存在した空気が残っているかのように、ぼんやりと玄関の方を眺める受付嬢。
自身の手の中にある書類に書かれた『コウ・スフィリア』と言う名前を見て再び頬を染めた。
彼女の脳内からは、コウという名前は女性によく使われるそれであると言う事などすっかり抜け落ちてしまっている。















「終わった?」

軍から出てきたコウの耳に、そんな声が届く。
声の方を向きつつ彼女は肯定の返事を上げた。

「迎えに来てもらわなくてもちゃんと帰れるけど?」
「迷子の心配はしてないけどね。ま、暇だったし」

エンヴィーはそう言いながら歩き出す。
後半部分が彼の本音、と言った所だろうか。
暇つぶしの材料にされると言うのは不愉快を感じる事もあるものだが、今回はそう感じなかったらしい。
コウは前を歩くエンヴィーの背を追った。









不意に、コウの足がぴたりと止まる。
それに気付いたエンヴィーが足を止め、「コウ?」と名を呼ぶ。
だが、彼女はそれに答える事無く、ただ先の見えないほどに暗い路地を眺めている。
やはりこう言う闇の世界はどこにでもあるもので、それはセントラルも同じであった。
ゴロツキ共の屯する場所に何があるんだ?と首を傾げるエンヴィーの心中に答えるように、コウの唇が開かれる。

「声がする」
「俺の?」
「んなわけねぇだろうが」

とりあえず苦し紛れに返した言葉には、少しばかり不機嫌でトーンの下がった返事が返される。
まぁ当然か、と気にした様子も無く、エンヴィーは彼女を向いた。

「じゃあ、何の声?」
「………イヌ…科?」
「……………何か、凄く曖昧だけど…まぁ、言いたい事はわかった」

要するにイヌ科の動物特有の唸り声、もしくは遠吠えのようなものを聞いたのだろう。
曖昧で的を射ない答えではあったが、エンヴィーはそう憶測を立てる。
そして、彼女の視線の先…全てを飲み込むような闇を見つめた。
かなり奥まったところまで続く路地らしく、昼でも周辺の建物の構造上日が差し込まない空間。

「…色々とやるには丁度いいからね」

この際何を『やる』のかは気にしない事にしておこう。
くっと持ち上げられたその口元が、彼のお楽しみを示しているのだと言う事は明白だ。
静かに溜め息を一つ落とすと、コウはその路地に向けて一歩踏み出す。

「ちょっと、行くつもり?」
「先に帰ってろよ。ちゃんと迷子にならずに帰るから」

手を軽く持ち上げてそう言うと、コウは影を踏む。
彼女の身体はすぐに闇に飲み込まれ、やがて見えなくなった。
暫しその場に止まるエンヴィーだが、彼もまた溜め息を落として見えなくなった背中を追う。















カツンと足音が聞こえ、連れと自分はバッとそちらを振り向く。
昼間の明るさを少しばかり保つその空間に、その人物はいた。
燃えるような赤髪を揺らし、鋭気を宿す茶褐色の眼は細められている。

「何してんだよ」

堂々とした態度を崩す事無く、威圧感すら纏っての言葉。
答えないという選択肢など始めから用意されておらず、ただその鋭い眼差しに竦み上がるのみ。
支配感に酔いしれていたひと時など忘却の彼方で、手綱はすでにその人物の手の中にあると感じさせられる。
生かされるも殺されるも、この人間次第。
近づく足音に、ただ身を震わせた。





「大の大人が寄って集って…弱者を甚振るとは大した趣味だな」

男二人の脇をすり抜け、彼らの足元に転がっていたそれの元に膝を付く。
まだ浅く呼吸を繰り返してはいるが、長くは無いだろうと言う事は容易に理解出来る。
赤く濡れた毛並みをそっと撫でるコウは、無防備に男らに背中を向けていた。

「こんな小さな存在に支配者気取り、ね。満足か?」

自身の手に伝わっていた鼓動が止まるのを指先で感じ取り、薄く笑ったコウはくるりと振り向く。
じりじりと後ずさっていた男の一人が「ひっ」と竦みあがった。
コウはその男の向こうに人影を見止め、それに向かって口を開く。

「こいつらは当たり?」
「いや。どこにでも転がってるクズだよ」

怯える男らを前にしても、エンヴィーは雑談と変わらない口調でそう答えた。
尤も、彼が同情心など見せた日には、明日の天気を心配しなければならないところだが。

「そ」

エンヴィーの言葉にコウはそう短く返して立ち上がる。
無論、その会話の意図を知る事の出来ない男らは彼女とエンヴィーとを交互に見つめて右往左往する。
彼らは今前後を二人に挟まれている状態なのだ。
別に退路を断つと言う意図はエンヴィーには無かったのだが、自然とそうなってしまっただけだ。

「まぁ、個人的にあんたらに恨みがあるわけじゃないけど。許せないもんは許せない」

丁度良かった、とコウは静かに紡ぐ。
そして一歩、また一歩と男の一人に近づき、その前に立った。

「く、来るなっ!!」

持っていたナイフを横に薙いで抵抗を試みる男。
しかし、いとも簡単に軌道を読み取ると、コウはその腕を掴んで反対の拳を鳩尾に深く埋め込む。
喧嘩慣れしている彼女にとって、男の行動など蝿が止まるほどに遅く見えていた。
ドサリと地面に転がり、痛みに悶える仲間を見てもう一人の男は自身の足を叱咤して逃げる。
だが、逃げた先のことを考えられるほどに、思考は正常に働いてはいなかった。

「勝手に逃げんな。生贄になってもらうんだからね」

片腕で男の身体を掴み上げ、コウの方へと放り投げたのは退路に立っていたエンヴィー。
ふわりと宙を舞った後、男は仲間のすぐ傍らに派手な音と共に転がった。

「生贄ってな…他に言い方ないのかよ?」
「同じでしょ。コウを完全にこっち側に迎える為の生贄」

そう言ってエンヴィーはくっと口角を持ち上げ、脇に転がっていた鉄屑をコウへと投げる。
コウがあっさりそれを受け止めるのを見届け、腕を組みなおして傍らの壁に凭れかかった。
これ以上は手を出すつもりは無い、と言う意思表示にも見える。

「…切欠は必要、か」

小さく呟き、手の中のそれを錬成する。
彼女の手の中で生まれ変わったそれは、鋭利な刃を宿したナイフだった。

「見逃してくれっ!!毛皮を売るつもりだったんだ!!」
「甚振る必要なんて無かっただろうが。耳から離れねぇよ…こいつの小さなSOSがな」

あの時一瞬だけ、空耳かと思って聞き逃しそうな小さな音量で。
それでも確かにそれは自分の耳に届いていた。
喧嘩とは違い、命を奪う為に腕を振り下ろす。
怯えきっている人間に対して、持ち前の運動能力を発揮する必要などどこにもなかった。















「はい、オメデトウ」

にっこりと笑って、エンヴィーはコウの手を取った。
抵抗は無意味ととっているのか、彼女の方もされるがままだ。

「コウの手も血に染まったし…これで『仲間』だね」

ピリッと小さな痛みが二の腕に走る。
眉を顰めるほどのものではなく、ただ何かを確認する為にそちらへと視線を向けた。
その視界に、血の様な色の入れ墨を見つける。

「…ウロボロス…」
「そ。晴れて俺たちの仲間だよ。だから『オメデトウ』」

今夜は宴会だね、などとふざける彼に肩を竦め、腕を放してもらうと背後のそれに近づいていく。
それは、まだ子供の体格の子犬だった。
漆黒の上に黒ずんだ赤が乗っていて、生命反応はすでに無い。

「…エンヴィーってさ、犬に変身出来る?」
「出来るよ?」
「何も聞かずに変身してくれ」

コウの言葉に首を傾げるも、エンヴィーは素直に願いを聞きいれた。
バシンと音がしたかと思えば、彼の身体は黒い毛に包まれ、その姿は犬へと成り代わる。
それを見て満足げに微笑んだコウに、エンヴィーは首を傾げながらもとりあえず一度尾を揺らしてみた。

「先に謝っとく。悪い」

は?と問い返す前に、ぐいと尾を引っ張られる。
慣れない感覚にエンヴィーが抗議の唸り声を上げようとするが、それよりもコウの行動は早かった。

いつの間にか彼女の手には、赤く濡れたナイフが戻っていて、そして―――

Rewrite 06.06.11