Raison d'etre  sc.069

「忘れていい。私という人間が存在した事…一護を、愛した事。全部忘れて、過去の事にして」

沈黙が全部…難しい事も何もかもを攫ってくれればいいと思った。









「紅…何言ってんだよ。前に言ったじゃねぇか」

そう言ったのだ。
お互いに囚われず、それでも心の片隅に残して忘れないと。
前半は全く守れていないけれど、少なくとも忘れた事などない。

「あの時はまだ何も知らなかったの。こんな危険な力だと思わなかった」

霽月は元々瑣迅の斬魄刀で、彼女は彼の意思や行動の全てを知っていた。
彼女が全てを語ったのは、藍染が去り紅が眼を覚ましたその日。
彼女から事実を知ったあと色々と考えた紅だが…結局、いい答えなど浮かばない。
巻き込まないにはどうすればいいのか。

関わりを絶つ。

彼女にはそれしかないように思われた。

「…お前はそれでいいのかよ」

彼は深く追求する事無く、心なしか沈んだ声でそう言った。
いや、心なしか、ではない。
明らかな声色の変化に、紅が気付かないはずはなかった。
けれども、それを認めてしまっては『忘れて』と言う言葉はその意味を失う。

「…本来は、もう交わる事のない道だった…から」

俯いてしまわないように、この幼馴染が隠された心を悟ってしまわないように。
死覇装の下でぎゅっと拳を握り締め、紅は真っ直ぐに彼を見つめてそう答えた。
暫く沈黙してその眼差しを受けていた一護がふいと顔を逸らす。
そして無言のままに立ち上がると、彼女を見下ろして口を開いた。

「そうかよ。…………じゃあ、元気でやれよ」

そう言って向けられた背中が、ゆっくりと遠のいていく。
引き止めてしまいそうになる腕を下ろし、代わりに口を開いた。

「うん。一護も…元気で」

返事の代わりに片手を挙げた彼を見送り、その背中が見えなくなるなり柔らかい草の上に座り込んだ。
瑣迅は転為術を生み出したが故に処刑され、彼の妻であり紅の母である姶良もその後を追う。
表向きには瑣迅だけが罪を問われたのだが、裏では彼女暗殺のために部隊が編成されたと霽月は言う。
それを知った彼女は、自分と彼の全てを移した紅を自身の能力で現世へと転生させたのだ。

「四十六室がもう居ないとは言え…また同じ事が繰り返されないとは限らない…」

これ以上彼に歩み寄れば、紅が転為術を使えると知れた時が危険。
こうするのが一番だったのだと、彼女は眼を閉じる。













ザッと背後から近づく音に気付く。
一体どれほどの時間眼を閉ざし、心を閉ざしたのだろうか。
すでに傾ききっている夕日は間もなく沈み、夜があたりを支配する。

「紅」
「ごめんね。すぐ帰るって言ったのに。心配した?」

名前を呼ばれ、紅は深呼吸を一度行うとくるりと振り向いた。
ルキアが何とも言えない表情を作っている事に気づき、自身が笑えていないのだと知る。

「そんな顔しないで。最良の選択をした筈なの」
「そんな顔はこっちの台詞だ、莫迦者…」

鏡を見せてやりたい、と彼女は呟く。
どうしてこうやって自身を追い込んでしか生きられないのだ。
そう言って怒鳴りつけたいが、一度決めた事を自分の言葉で覆す事はないだろう。
彼女に声を届かせられる人物がいるとすれば…。
きゅっと唇を噛み締め、ルキアは別の言葉を紡ぎだす。

「紅。兄様がおぬしを呼んでいる」
「白哉さん…大丈夫なの?」
「ああ。もうすでに動ける程度には回復された。話があるそうだ」

自分の言葉に「わかった」と短く返す紅を見て、ルキアは胸を痛めた。
彼女が白哉をどれほど慕っているかは、自分もよく知っている。
その紅が、白哉の回復に大きな反応を示さないのだ。
案じる気持ちはあっても、感情がそこにない。

「じゃあ、行くね」

そう言って背を向けた紅。
数歩歩き出し、彼女は足を止めた。

「…出来るなら、色々と聞くのは…時間が経ってからでお願い」

じゃないと、壊れてしまいそうだから。
その言葉を最後に、彼女は瞬歩でその場から消える。

「これでは逆戻りではないか…紅の莫迦者…」

空へと拡散された言葉は、一番届けたい彼女には届かない。


















「失礼します」と部屋の中に入る。
少し前に機械の取れた白哉が、窓の外を見つめていた。
すでに、いつもここに居た恋次の姿はこの場にはない。
帰った後なのか、白哉が意図的に帰らせた後なのかは紅にはわからなかった。

「紅か」
「随分回復されたようですね。安心しました」
「急所を逸れたのはお前のお蔭だな。感謝する」

目線で椅子に座るよう促され、紅はベッドの脇に置かれたままのそこに腰を下ろす。
漸く窓から紅へと彼の視線が移動した。
彼女の表情を見て、彼は軽く眉を寄せる。

「何かあったか」
「…覚悟と決別を。ただ、それだけです」
「………黒崎一護に全てを話したのか…」

即座にその答えを導き出す彼に、紅は少し驚いたような表情を見せた。
彼の言い分は、まるで―――

「転為術を使えることがそんなに恐ろしいか、紅」
「ど、うして…そのことを………」

片手が口元を覆う。
誰にも話した事はないし、これからも話す事はない。
一護に語ったのが最初で最後だったはずだ。
何故、白哉がそれを知っているのか…理解できない紅はただ困惑に表情を染める。

「案じるな。これを知っているのは私一人だ。口外した事は、今を除いて無い」
「…父から聞いていたんですね」
「ああ。霽月からお前に伝わるであろう事もわかっていた」

隠そうと言う意図の見えない彼の声はすんなりと紅の中を通過する。
この人は、その危険を知った上で…それでも、自分の事を気に掛けてくれるのだと。
恐怖と言う最も人間を醜く動かす感情を抱く事無く、今までと同じように見てくれるのだと。
その事実が嬉しくもあり、同時に今更ながらに去っていたあの背中に罪悪感を覚える。

「ありがとう、ございます。でも…この事は今後、何があっても口外しないでください」
「…わかっている」

短く答えると、白哉はすっと部屋の中の引き出しを指差した。
紅はそれを追うと、その意図を読めずに首を傾げる。

「引き出しの中を見ろ」
「あ、はい」

そう言われて彼女はその引き出しに手を伸ばす。
中に入っていたのは、白い手紙一つ。
表にも裏にも文字は無く、これの事ではないのかと思うが引き出しの中にはこれしか入っていない。
内心首を傾げつつも、それを拾い上げて椅子に座りなおした。
これですか?と確認する前に、彼が口を開く。

「瑣迅から渡すようにと頼まれていた。お前への手紙だ」
「………瑣…お父様から…」
「………いつか…お前がここに戻り、そして………愛する者の事で悩む時、渡して欲しいと」
何度か言葉を詰まらせながらも、彼はそう言った。
その時を悟るのは中々容易な事ではなく、的を射ない説明は白哉を悩ませたものだ。

しかし、今しかないと思った。
ただ直感的に、この部屋に入ってきた紅の表情を見て、今が瑣迅の言っていた時なのだと。

「…中に何が書かれているのかは知らん。だが…それを読んで、もう一度よく考えてみろ」

そう言って紅の頭を撫でる。
ルキアにもこうしてやった事はなかったなと、どこか人事のようにそんな事を考えていた。
今の、例えようも無く不安定な彼女だからこそ、何故かそうしなければならないような衝動に駆られたのだ。
恐らく、誰かが傍に居なければこの娘は壊れてしまう。
封を解かないままに白いそれを見下ろす紅。
だが、程なくして彼女は何かを決めたようにそれを懐に仕舞いこんだ。
そして素早い動作で立ち上がる。

「失礼します、白哉さん」
「ああ」
「…ありがとうございました」

そう言って頭を下げ、彼女はその部屋を後にする。





自室に戻る間も惜しく、封を解いてしまえと誘惑する指先を叱咤して足を動かす。
飛ぶように移動した道中は、彼女の記憶には残っておらず、いつの間にか自室のベッドの上に居た。
震える指先を封へと近づけていく。

06.07.24