Raison d'etre  sc.070

夜が明けるまでに、その手紙を何度も―――そう、瑣迅の字の癖を覚えてしまうほどに、何度も読み返した。
殆ど寝ていない状態でも、いや、寝ていない状態だからこそ…思考は妙にはっきりしている。
今成すべき事を、自身の脳裏に思い浮かべた。
そして結わえていた自身の髪を解く。
何物に阻まれる事もなくなった髪は、サラリと背中を覆う。
いい天候に恵まれそうな朝空を見上げ、紅は一度息を吐き出した。

「ありがとう………お父さん」

彼の墓石を前に、紅は自身の口角をそっと持ち上げつつそう呟いた。
誰に届く必要も無く、でも彼に届けばいいと思う。
そんな小さな声はすぐに空へと掻き消された。
そして、彼女は近づいてくるよく知った気配を悟る。
あぁ、この速さなら恐らく必死で走っているんだな…とどこか人事のような感想を抱いた。

「―――紅!」

そう、こう呼ばれるのも、予想通り。
そして彼女は………ゆっくりと振り向いた。










「一護…何でここに?」
「白哉に聞いてきた。最近朝になると墓参りしてるってな」

僅かに息を弾ませた彼は、手短にそう話す。
紅は心中で軽く白哉への謝罪を入れ、彼に向き直った。
制限される事のない栗色の髪が風に乗って泳ぐ。

「もう、忘れてって言ったはず」
「ああ。聞いたな」
「なら、どうして………あの時はちゃんと頷いたじゃない」

悲しげな表情を浮かべて紅はそういう。
だが、一護は軽く肩を竦めて首を振った。

「一度言い出したら梃子でも曲げない頑固者だからな、紅は。一日経てば頭も冷えただろ」
「何で…」
「…お前なぁ…わかんねぇほど付き合い短くねぇだろうが」

本心かどうかくらいはわかるぞ、と彼は頭を掻いた。
着飾る事無く自然の様子を見せて言葉を返してくる彼。

「………一護だなぁ…」

そう呟いた声は彼には届かなかったようだ。
俯いてその言葉が発せられると同時に、彼女の口元には笑みが浮かんでいる。
先程までの、彼を拒む姿勢はすでに消え去っている。
くだらない意地など、残しているだけ無駄だった。

「もう一度聞くぞ。お前はそれでいいのか?」
「…いいわけない」

顔を上げてはっきりとそう言った紅。
一護の表情にも笑みが浮かぶ。
その言葉を待っていた、と言うその表情に、紅は胸を締め付けられるような錯覚を起こす。

「忘れられないし、忘れたくない。住む世界が違っても、いつかは交わりあう運命だって信じたい」

彼女は一息にそう告げると、一歩足を踏み出した。
縮まった距離で彼を見上げてその手を伸ばす。
絡まりあう二人の指先にそっと微笑み、そして唇を開いた。

「言うべきじゃないってわかってる。だけど…」

躊躇いがちに落とされた視線は、宙を彷徨うように移動して持ち上げられる。
しっかりと絡み合った眼差しはその強い意志を浮かび上がらせていた。

「…過去にしないで。すぐに逢えないし、生きていく世界は違うけど…それでも、過去にして欲しくない」

共に歩む事は叶わないが、それでも想いが過去になっていなければ、続いて行ける。
自身の感情を殺して切り捨てられるほどに大人ではなかった。
そう言ってしまうと、紅はまた顔を俯かせる。
彼の言葉を待つ時間が酷く長く感じてしまった。
そんな中、次に彼女を迎えたのは言葉ではなく―――

「…一、護…」

指先を絡めたままにその手を引かれ、力の加えられるままに身体は揺らぐ。
受け止めるのは短い草を茂らせる地面ではなく、優しい温もりだった。

「…向こうには来れるんだろ?」
「……………任務なら」
「じゃあ、その時には顔を見せてくれ。それだけでいい」

背中に回された彼の腕の力強さを感じ、紅は自身の頬が染まるのを自覚する。
それを隠すように額を彼の胸元へと押し当てたが、恐らくは気付かれていただろう。
笑いを押し殺すように揺れる彼の身体がそれを物語っていた。

「…私、爆弾抱えてるけど…」
「お前一人護れねぇほど弱くねぇ」

――お前の愛した男の背中は、お前の一人の辛さも抱えられないほどに小さいか?

目を閉じても瞼の裏に浮かび上がるほどに、何度も読んだ手紙。
その中に書かれていた一文を思い出し、彼女は苦笑を浮かべた。

――あぁ、彼の言う通りだ。

「昨日の言葉…撤回させてくれる?」
「当然だろ。してもしなくても忘れるつもりなんかねぇけどな」

ありがとう、と言う紅の小さな声は届いただろう。
少しだけ抱きしめる力が強くなった。
そう言えば、こうして真正面から両腕で抱きしめてもらうのは初めてかもしれない。
それに気付くと、自身の頬はこれ以上無いほどに熱を孕む。
自身の心音が伝わるのでは…と思ったところで、紅は気付いた。

「…一護、もしかして……緊張、してるの?」
「………ほっとけ」

いつもの心音なんて知らないけれど、それでも自身のそれと同じほどに早鐘を打つ彼のそれ。
それの意味するところなど…考えるまでも無い。
素っ気無い返事も、照れ隠しにしか聞こえなかった。
自分と同じくらいに真っ赤になっているんだろうと思いながらも、あえて顔は上げない。
きっと、彼は見られたくはないだろうから。

「…一護」
「んだよ?」
「ありがとう」
「…あぁ」

何度言っても足りない言葉を、この唇に乗せよう。

そう―――二人の時間の許す限り。







双極の丘に、あの日の荒れた空気は無い。
ただ穏やかな風がその場を駆け抜けていた。
二本の柱をしっかりと地に着けた穿界門が見下ろす先には十数名の死神の姿。
志を同じくして共に戦った者、或いは刀を交えた者。
だが、全ての顔に一点の曇りも無い。

よく晴れた日の朝、瀞霊廷を騒がせた旅禍5人は自分達の在るべき場所へと帰った。

完結

06.07.25