Raison d'etre sc.068
紅専属の地獄蝶をそっと手の上に載せる。
羽を休める漆黒の蝶を見つめ、彼女は微笑んだ。
「伝言ありがとう。もう戻っていていいよ」
そう声を掛けてやれば、まるで人の言葉を理解するかのように地獄蝶は羽を揺らしてどこかへと飛び立った。
人の言葉を理解していないのかもしれないが、恐らく向かった先は零番隊執務室だろう。
行く先を案じる事もなく、紅は晴れた空を見上げた。
この丘は空が美しく見える。
見上げた風景は、いつかの過去を思い出させた。
「こんな所で空を見上げてたの?」
背後からの声に、短いオレンジ色の髪を揺らして一護は振り向いた。
その頬は赤く…どころではなく、青く腫れていて、それだけで何があったかを悟らせる。
所々擦り切れたような制服も同じだった。
「紅か」
「そうだよ。学校帰りに喧嘩してる誰かさんを迎えに来た優しい幼馴染です」
救急箱持参でね、と言いながら彼女は短い草を踏みしめて彼に近づき、その隣に腰を下ろす。
荷物になるような一抱えもある箱を見れば、彼女が一度家に帰って此処へ来てくれたのだと言う事がわかった。
さり気無く隠された『黒崎医院』と言う名前がその証拠だろう。
「ほら、腕出して」
「腕なんか怪我してねぇよ」
「嘘つくなら傷口に塩をすり込むわよ」
言いながら乱暴に彼の手首を掴みあげる紅。
容赦ない握力に、真新しい傷がズキンと痛み、彼は思わず眉間の皺を深めた。
「腕で庇うのはいいけど、流石に角材はよくないよ。下手すれば折れる」
学ランの袖を通して尚、腕は赤い血を付着させていた。
すでに傷口の血は乾いていて、怪我をしてから数時間が経っているのだと気付く。
てきぱきと処置を行った彼女は、最後に頬の傷に湿布を貼った。
「夏梨と遊子に怪我の心配掛けたくなくて帰り辛いのはわかるけど…帰りが遅い所為で余計に心配してるわ」
今日は学校が半日だって知ってたわよ、あの子達。
紅がそう言えば、彼はバツが悪そうに顔を逸らす。
「…悪かったな。頼まれたんだろ?」
「私は自主行動っ」
バチンと救急箱の止め具を閉め、紅は少し言葉に棘を持たせながら言った。
それを自身の脇に置くと、伸びの要領で空を仰ぐ。
「綺麗な空ー…。ねぇ、いつか、また二人でこんな空を眺める事ってあると思う?」
「あー…あるんじゃねぇか?晴れなんてよくあるだろ」
大した事じゃない、と言った彼に、紅は「わかってないなぁ」と呟く。
首を振りつつ呆れたように溜め息をつかれた事に、一護は眉を顰めた。
だが、どう言う事だよと問いかける前に彼女が自主的に話し出す。
「こんな空はいつでも見れるよ。問題は二人でって事」
「そりゃ……………見れるんじゃないか?」
「どうだろうね。誰かさんは喧嘩しては怪我してばっかりで…その内、命に関わるんじゃないかって心配」
「そんなに弱くねぇよ」
「そういう問題でもないよ」
即座にそう返せば、一護は言葉を失って口を噤む。
その様子に、彼女はまたやれやれと肩を竦めるのだ。
「少しは控えようよ。怪我する度に、不安なんだから…」
包帯の巻かれた腕に手を乗せ、紅は表情に影を落としてそう呟く。
小さな声はどこか震えているようで、いつもの気丈さなど感じさせないものだった。
罪悪感に駆られた一護はガシガシと頭を掻く。
彼女とは長い付き合いだが、こう言う反応はあまりないだけにどうしていいのかわからなくなるのだ。
「…わかった。これからは控える……ようにする」
「それ、何回目の言葉だろうね」
「今度こそ守るって!………多分」
何度も沈黙の後に付け足してしまう彼に、紅はクスクスと苦笑を浮かべた。
どうしても確約できないのは、彼自身から吹っかける喧嘩の方が少ないからだろう。
「まぁ、今回もそれで大目に見てあげる」
「おう」
それ以上言葉はなく、夕日が夜を運んでくるその時まで見上げた空は、やっぱり澄んでいた。
「こんな所で空を見上げてたのか」
後ろから掛かった声に、紅は振り向かずにクスリと笑う。
地を踏みしめて近づいてくる音が彼女の耳に届いてきた。
「いつかとは逆だね」
「あぁ、そうだな」
「…意外。覚えてたんだ?」
隣に立った人物に、紅は漸くそちらに視線を投げかける。
彼女の視線を受けた一護は、ふいっと視線を逸らして「当然だろ」と答えた。
「アレから丁度一週間後だったからな」
「……あぁ、そうだっけ」
そう、あの日から丁度一週間後。
同じ曜日、二人で並んで帰路へと着いたのと同じ時間。
二人の進む道は交わる事を忘れ、考えもしなかった方へと歩き出した。
紅が死神として日番谷の手を取った日。
「一護の命の危険の方が大きいと思ってたのに…予想外だったよね」
「そうだな」
「絶対一護より長生きできると思ってた」
「そうだな」
「美人薄命なんて言うつもりないけど、ちょっと早すぎ」
そこまで言って、紅はふと口を噤む。
この先を話してしまってもいいのだろうか、そんな疑問が脳裏を過ぎる。
けれど、彼も知るべきだろうと思いなおした。
震えてしまいそうな唇を叱咤する。
「私、本当は死ぬべきじゃなかったって」
こちらに視線を向けることのなかった一護が息を呑んで振り向くのを、気配で感じる。
彼女自身は俯いていて、それを見る事はなかった。
「藍染さんが…言ってた。あの日、私の元に虚を送り込んだって。
今みたいに力があったなら大丈夫だったけど…生身の人間。どうやったって…無理よね」
「………嘘だろ…」
「本当よ。本人がそう言っていたから」
そう言って紅はその場に腰を下ろす。
広がる死覇装の裾がふわりと舞った。
彼女に倣うようにして腰を下ろした一護の視線は未だ彼女の横顔に注がれている。
「私の中には、三つの魂魄があるの。一つは私の、一つは瑣迅…私のお父さん、そしてお母さん」
「そんな事、有り得るのか?」
「本来なら有り得ない。だからこそ瑣迅は処刑された。転為術は瀞霊廷内で禁術とされてるわ」
「何でだよ?」
「その人の素質も何もかも全てを移す。つまり、私は三人分の能力がある。
身体の限界があるから、むやみに使うことは出来ないけれど…慣れれば、この世界に敵はないわ」
尸魂界の中でも五本指に入るほどの実力と謳われた瑣迅の力を、紅が完全に継承しているのだ。
完全に使いこなす事ができるようになれば、彼女の言葉も決して現実離れした話ではない。
「それを恐れて処刑されたってワケか」
「そう。……ここからは、総隊長にも話してないんだけど…聞く?」
聞く、聞かないの選択肢を用意し、紅は彼を見つめる。
真っ直ぐな視線は、どこか肯定して欲しいと訴えているように見え…けれど、それを拒んでいるようにも見えた。
「…ここまで聞いたんだ。これ以上も変わんねぇだろ」
少し嬉しそうに微笑んだ彼女の笑顔が懐かしかった。
覚悟を理解した紅は、躊躇う唇を動かす。
「私は…瑣迅の、転為術に関する知識を受け継いだ。いつか来る、最悪の事態を防ぐ為に」
「…待てよ。その瑣迅は、転為術を扱えるからって処刑されたんだろ?そんなのが使えるなら、お前は…」
「これが知られれば、恐らく…殺されるか、もしくは利用されるでしょうね」
爆弾を抱えてる気分よ、と苦笑を浮かべる。
何で笑ってられるんだよ…自分の親父と同じように殺されるかも知れねぇんだろ…?
浮かんだ言葉は声にはならず、自身の脳内をぐるぐると回る。
「一護」
「な、んだよ…」
「忘れないでって言った言葉、撤回するわ」
「…は?」
問い返す彼に、紅は苦くも自身を嘲るものでもない笑みを浮かべる。
優しい、全てを悟るような笑みに、何故か嫌な予感が背筋を走った。
「忘れていい。私という人間が存在した事…一護を、愛した事。全部忘れて、過去の事にして」
06.07.21