Raison d'etre  sc.065

戸を閉めてしまえば、そこは隔絶された空間へと成り代わる。
小まめに空気の入れ替えは行っていた筈だが、ここ三日はそれも中々出来ていない。
少しばかり立て付けが悪く、キィ…と悲鳴を上げる窓を開け放てば心地よい風が紅の髪を遊んだ。
栗色のそれが風に揺れる様は、どうしようもないほどの懐古の想いを掻き立てる。
もう二度と見る事も叶わない筈だった光景が、そこにあった。

「お茶でいい?」

一頻り風を頬に受けた後、紅はその余韻に浸るでもなく機敏な動きで一護に問いかける。
そんな彼女の反応に、逆に狼狽したのは彼だ。
言葉をどもらせつつ「おぅ」と当たり障りの無いごくごく普通の返事を発する。
だが、それを気にした様子も無く…寧ろ、それに対して嬉しそうに口元を緩めて紅は頷いた。
そして、彼に座っていてと声を掛けて隣の部屋に消える。
その間一護は座布団に腰を下ろしつつ、室内を見回した。
一見、さっぱりした、と言うよりは必要なもの以外は置いていないと言う印象を受ける。
その中でも一際目を惹く大き目の本棚には、頭の痛くなりそうなほどに分厚い本が隙間無く押し込まれていた。
ずるずると膝で移動してその一冊を引き抜いてみる。
思ったよりも簡単に取り出せたそれを膝の上におろし、ペラッと捲り―――そして閉じた。
頭が痛くなる以前の問題で、まず目がこれを読むことを拒否する。
それほどに文字数だけが只管多い本だった。

「一護に読めるようなものは置いていないと思うよ?」

クスクスと抑える様な笑い声と共に、足音が近づいてくる。
振り向いた一護の視界にまず死覇装が、次いで手に盆を持った紅の表情が映る。

「家から持ってきた本ばっかりなんだけど…どれもそれと同じくらいに難しいの」

そう言いながら彼女は平机の上に盆を置き、壁際に置いてあった座布団を引っ張ってきた。
机の角を挟んで、一護と斜向かいの位置に腰を下ろす。
そして、未だ彼の膝の上にあった本を指先で拾い上げ、ペラペラと捲った。

「本当に、難しい事ばっかり。読むのに一週間、理解するのに一ヶ月かかったよ」
「…お前でもそんなにかかったのかよ…」

一護は驚いたようにそう呟いた。
その言葉の内容に紅が頬を緩める。
自分が読書を好きだったと言う事実は、まだ彼の記憶から消えては居ないらしい。

「何でそんなの読む必要があるんだ?」
「色々と勝手が違うからね。貴族のお家柄仕方の無い事だけど」

そう言って、紅は思い出したように盆の上に置いたままだった湯飲みを彼と自身の前に置く。
少し熱めの湯で淹れたお茶は、まだほんのりと湯気を立てていた。

「この部屋は?」
「私の自室。隣の給仕室と、あともう一部屋だけあるわ」

そっちは寝室に使ってる、と紅は説明した。
そして、冷めないうちにと湯飲みから茶を啜る。

「ここって面白いよな。全部和風な造りかと思えばそうでもねぇし」
「あー…確かに。板張りの部屋もあるし、ベッドも使うしね。和洋折衷?」

初めの頃は色々と不思議に頭を捻ったものだ。
今となってはすでに受け入れてしまっているのだが。
クスクスと笑った紅に自身も少しばかり頬を持ち上げ、一護も湯飲みに手を伸ばす。
まだ口に含むには少しばかり熱いそれを冷まして一口飲み、徐に表情を変えた。

「…怪我の方はどうなんだ?」
「あぁ、もう平気よ。包帯は…まぁ、念の為にって言われているだけだから」

一護の視線が肌の上に巻かれた包帯に向けられている事に気付いた紅はそう答える。
自分の方が重傷だっただろうと言いたいところなのだが、言ったところで平気だと返って来るのが関の山。
とは言え、聞かずに居られる紅ではなく―――
気がつけば、今は傷の残らない彼の頬に手を伸ばしていた。

「…一護の方が、酷い怪我だった」
「もう治った」
「治して貰った、でしょ。井上さんに感謝しないと」

ふと哀しげに表情を浮かべ、頬を一度撫でたあとその手を下ろす。
そして、その表情のままに微笑んだ。

「一護って昔から怪我ばっかりよね」
「…そうだな」
「その度に手当てして…」

思い出すようにそっと小さく紡ぐ。
恐らく、手が届く距離に居る一護には届いてしまっただろう。
家が医院なのだから、帰宅すればいくらでも手当てはしてもらえる。
それでも怪我をしたまま家に帰る事で要らぬ心配をかけるのを嫌ったのが彼だ。
いつも一緒に行動していた紅がその手当ての役を担うのは、二人の中ではごく自然な事だった。

「今でも喧嘩してる?」
「いや、殆ど買わなくなったな。売らねぇし」
「そっか」

少しは成長したんだね、と紅はその場の空気を一掃するように笑う。
だが、それで拭えるほど軽い空気ではなかった。

「怪我の手当てをしてくれる奴が居なかったしな」

ぽつりと零れ落ちた言葉に、一護はハッと我に返る。
言うつもりなどなかったのだ。
こんな事を言ってしまえば、優しい彼女が心を痛めることなど解りきっているのに。
一度は俯けていた視線を慌てて紅へと向ける。
先程の言葉に誘われたそれが、ぽたりと落ちた。

「…っごめん」

一護の視線から逃れるように、紅は顔を逸らす。
隠すように口元を押さえるが、その肩が震えているのに気付かずには居られない。

泣かせたかったわけじゃない。
ただ、もう二度と会う事も叶わないと思っていた彼女との再会を噛み締めたかっただけだった。

自分でも抑えが利かないのだろう。
せめて声だけでもと口元を手で覆い、顔を俯ける紅を一護は何とも言えない表情で見つめていた。
だが、どうすればいいのかわからない頭とは裏腹に、身体が勝手に動く。
そっと持ち上げた指を彼女の頬へと滑らせれば、驚いたように紅が顔を上げた。
反動で目じりに溜まっていた涙が零れる。
頬を伝うそれを指の腹で拭い、一護は口を開いた。

「泣くな」
「…ごめん」
「…謝んな。寧ろ、俺こそ悪かった」

涙を拭った手を耳の方へと滑らせて頬に掛かる栗色の髪を払ってやる。
そして、その手を撫でるように、安心させるように動かした。

「………紅。俺、全部覚えてるんだ」
「何を…?」
「お前が会いに来てくれた時の事。や、ルキアと会ってから思い出したって言う方が正しいか」
「…そっか」

本来は、忘れていなければならないのだ。
しかし、一度忘れたとは言え、ルキアを切欠に思い出してくれたと言う事実が嬉しい。
あの日の約束は、紅の中で今も確かに息づいているのだ。
最後の一粒を自身の指で拭い、彼女は口を開く。

「ねぇ、一護」
「何だ?」
「また会えて嬉しい。生きる世界が違っても………一緒に居られなくても」
「………あぁ、俺もだ。こっちでちゃんとやれてるんだな」

紅の言葉に驚いたように手を止め、それをもう一度動かして彼女の髪を梳く。
毛先まで指を通してしまうと、一護は少しばかり名残惜しげに自身の手を引っ込めた。
ここに彼女の居場所があるのだとわかっただけでも、安心できた。

「……一護」
「今度は何だよ?」

くっと口角を持ち上げ、それでもちゃんと返事を返す。
紅は目元を赤くしながらも、綺麗に笑みを浮かべた。

「好きだよ」
「―――…知ってる」

ふざけているとは取らずに、一護はそう答える。
彼の言葉の後、二人は視線を絡める。
そしてどちらとも無くふっと笑い出し、仕舞いには声まで上げていた。

「いつかの遣り取りと同じだね」
「あぁ、一年以上も前だよな」
「まだ覚えてた?」
「忘れるかよ」

こんな軽い遣り取りも懐かしく、笑いは暫く収まりそうに無い。
紅はそのまま笑顔を浮かべ、改めて口を開く。

「ねぇ、一護?」
「今度は何だ?何でも聞いてやるよ」

さっきから何度も呼んでいる所為か、やや投げやりな返答。
しかし、口元は優しく緩んでいてそこに心が無いわけではないと教えてくれる。

「抱きついてもいい?」
「…………変わんねぇのな、お前」

そう言いながら「しかたねぇ奴」と言う風に、苦笑にも似た笑みを浮かべる。
そして彼は下ろしていた手を持ち上げ、紅に差し出す。
了承の言葉は必要なく、彼女は誘われるように少し勢いをつけて身を寄せた。
額を胸板に乗せるようにして顔を俯け、背中に回すでもなく手は腹辺りの死覇装を握る。
一護は先程差し出した手を紅の頭に沿え、また撫でるようにゆっくりと動かした。
お互いの距離を無くすような、力強い抱擁ではない。
しかし、二人にとってはこれが一番自然な形で、そして安心出来るものだった。

06.06.08