Raison d'etre  sc.064

藍染の反乱から五日の時が流れた。
穏やかに見える時が流れ、しかしその中で確かに蠢く様々な想いの交錯。
残された傷跡は癒えるどころか時と共に徐々に深まりを見せていた。





零番隊第二執務室に、栗色の髪を流す女性は居た。
窓際に置いた椅子に腰掛け、結う事無く背中に流した髪の一房を自身の指に絡める。
くるりと細い指に巻きつけてみては、止める別の指を動かしそれを解放する。
首筋から見える包帯が、その細い身体に痛々しかった。

「霧渡…」

こつんと窓枠に頭を凭れ掛け、紅は小さく呟いた。
この三日、何度その名を唇に乗せたかわからない。
自分がここで生きるに於いての半身を失ったような、そんな言い知れぬ感情を胸に抱いていた。
恋ではない、愛でもない。
そんな言葉で括ることの出来る関係があったわけではない。
ただ、気兼ねなく安心して背中を預けられる存在だった。

『…隊長。俺は――――――』

記憶の中で、忘れる事のない彼の言葉を、声に出さずに唇の動きだけで思い出す。
あの状況下でそれを言った彼の意図。
未だその全てを理解できていないように思った。
ふぅと静かに息を吐き出し、紅は視界を閉ざす。

「瑣迅、姶良、樋渡……霧渡」

自分と関わりを持ち、そして藍染の思惑により傍に在ることを失った人たち。
前二名はすでにこの世を去り、樋渡においては未だ意識が回復していない。
そして霧渡―――

「…何が、大丈夫なの…」

今はただ、大丈夫だと言った彼の言葉を信じるしかない。
不甲斐無さが内から押し寄せ、ぎゅっと拳を握り締めた。














軽く、落ち着いた足音が近づいてくるのに気付く。
落ち着き、などという言葉は霧渡の中では凄く小さくて、彼はいつも荒々しい音を立てていた。
耳から伝わる事実が、彼が居ないと言う現実を見せ付ける。
ふと閉じた瞼の裏に彼を浮かべ、紅はそっと腰を持ち上げた。

「隊長、まだ仕事を……」

声を掛けつつ戸を開いた芦崎。
しかし、部屋の中に彼女の姿は無く、開きっぱなしの窓が不安げに揺れるだけだった。
















「紅ちゃん!」

とんっと背後から肩に衝撃が走る。
衝撃と言っても身体が吹き飛ぶようなそれではなく、幼子が遊び心で飛びついてくるようなものだ。
振り向くまでも無く、紅はその主を悟る。

「やちるさん、どうかしましたか?」
「もう大丈夫なの?」

やちるは紅の肩にぶら下がったまま首を傾げて問いかける。
大丈夫、と問われて思い浮かぶのは一つではない。
その中で最も適切と思える言葉を選び、紅は答えた。

「引きつる程度で運動にも日常生活にも問題はありません」
「そっか。ねぇ、十一番隊に遊びに来ない?」
「………そうですね、無理は出来ませんけれど」

お邪魔します、と紅は笑う。
やちるは自分が無性に身体を動かしたい気分なのだと、気付いたのだろうか。
そんな事を考えながら、嬉しそうに頷いた彼女を見ていた。

「あ、剣ちゃん!!」

遥か向こうに見えた更木を目ざとく見つけ、やちるは風の如くそちらへと駆けていく。
ものの数秒で、紅の存在は更木によって塗り替えられた。

「相変わらずだなぁ…」

クスクスと笑い、紅はふとその表情に翳りを見せる。
十一番隊に向かわせようとした足を明後日の方へと動かしだし、別の場所へと向かう。





掛けられる声に貼り付けた笑顔で返事を返し、ここ三日の間に幾度も通った廊下を歩いた。
そして、紅が向かった先には…。

「………まだ駄目…か」

血色の良い彼女から程遠い、まるで紙の様な顔色。
苦渋の表情ではなく穏やかな表情を浮かべているのは不幸中の幸いと言えるのだろうか。
呼吸を促す装置を口元に添えられたままの彼女を見下ろし、紅はその頬に手を滑らせた。

「樋渡…」

紅自身もあの日の怪我は決して浅くは無く、慣れない多量失血により二日間意識が戻らなかった。
栄養さえ摂取すれば問題無いという事で、卯ノ花より退院の許可が下りたのは目を覚ました翌日の事。
その際に四番隊の隊長である彼女自ら、樋渡の容態に関しての報告を受けた。
二週間以内に意識が戻ればそれで良し、戻らなければ―――

「紅」

不意に、カタリと背後で物音がする。
それと同時に控えめな声が紅を呼んだ。
彼女は樋渡の手を握っていたそれを解き、ゆっくりと振り向く。

「冬獅郎…」

彼自身もかなりの深手ではあったが、今となっては四番隊の世話になる理由は彼自身には無い。
つまり、ここに居ると言う事は。

「雛ちゃんも…まだ?」

語尾を濁すのは、自身の部下も同じ状況だからだろう。
入り口のところに立っていた彼は眉間の皺を深め、頷く。
そして紅から視線を移動させ、その向こうで静かに横たわる樋渡を見た。

「雛森よりも悪いらしいな」
「………早くに見つけてあげられなかったから…」

唇を噛み締めない代わりに、ぎゅっと手を握り締める。
切り揃えられた形良い爪が皮膚を切り裂く一歩手前まで。

「お前が気に病む事じゃない」
「…ええ、そうね」

静かにそう答えると、紅は樋渡を振り向く。
彼女に向けて「また来るわ」と声を掛けると、そのまま日番谷の隣をすり抜けて廊下を歩いていった。
その背中は切ないほどに哀愁を漂わせている。
引き止める声も抱き寄せる腕も、自身にはすでに無かった。

「………全然納得できてねぇくせに…」

肯定の返事を返してきたところで、本心が逆の事を叫んでいるのでは意味が無い。
最早、自分には彼女の心を聞く事は出来ない…そして、彼女は自分を頼ってはくれないのだと。
日番谷はそれを感じ取り、静かに息を吐き出した。
廊下の窓から見下ろした道に、彼は一人の死神を見る。
そこを歩いているにはあまりに不自然で、それが偶然でないことは明らかだ。
日番谷は自身の目を細め、その死神がこの建物の入り口に向かって足早に去っていくのを見つめた。

「黒崎…一護……」

紅が、力が欲しいと願った切欠。
そして、今でも彼女の中を占める人物。
引き止める声と、そして彼女を抱き寄せる腕を持つ男の背中に、日番谷は思った。

「支えてやれよ…」

届くはずの無い呟きは空へと消えた。













ザッと地を擦る音がした。
普段ならば、気にかけるような音ではない。
しかし、何故かこの時だけは…無視出来ないと感じた。
紅はゆっくりと落としていた視線を持ち上げる。

「一護…」

名前を呼べば、彼はふっと口元を緩める。
そして、高くは無く心地よい声が彼女の鼓膜を震わせるのだ。

「紅」

と。
一年と少し前、その名を呼び、そして呼ばれる事を諦めようと思った。
でも、幾度と無く唇がその形を紡ぎ、心が渇望する。
戦いの中ではない彼との再会が、紅の感情を振るわせた。
僅か数歩の距離すらも忌まわしいもののように、彼女は一歩ずつ足を進める。
伸ばした手は、自分よりも一回り大きく少しばかり骨ばったそれに絡め取られた。

06.05.30