Raison d'etre  sc.063

瞬きすら及ばないほどの時間で、それは目の前を通った。
傷の無い右の肩に走った衝撃は、こんな時ですら彼の気遣いを感じさせる。
咄嗟に揺れた身体を立て直そうと足を踏ん張るが、傷ついたそれは反抗を許さない。
加えられた力のままに体勢を崩した紅は、腕を差し出した芦崎に受け止められた。

「隊長!」

受け止められた時に彼の手が左肩を強く握る。
その痛みに顔をしかめ、そこを押さえる紅に芦崎は慌てて手を移動させた。
咄嗟の緊急事態に他の事を気にしていられないのは当然で、彼の行動を咎められるはずもない。
咎める、と言う選択肢すら紅の脳裏には浮かばず、ぎゅっと眉を顰めながらも彼女は顔を上げた。
四方を白い壁に包まれ、その内で大きく肩を揺らすその人。
傷が決して浅くはないということを伝えるかのように、遠目に見ても呼吸は乱れ、そして身体は震えている。
それでも彼は立っていた。
紅の中から痛覚が消え去る。

「霧渡っ!!」

支えてくれている芦崎を省みる余裕すらなく、彼女は彼との間に聳える白い壁に向かって手を伸ばす。
全てを遮断するそれの存在を知って尚、彼女には穏やかに留まる事など出来なかった。
必死の様子の彼女を見て、霧渡は普段は見せない眉間の皺を僅かに浅くし、安堵に似た表情を見せる。

「芦崎」
「…はい、霧渡さん」
「お前が副隊長を務めろ」

そう言った霧渡のこめかみから頬にかけて汗が流れ落ちる。
乱れた呼吸と共に、傷が熱を持って彼の体温を上げ続けているのだろう。

「俺が戻るまで………護ってくれ」
「………わかりました」

芦崎の返事を聞き、霧渡はほんの少しだけ口角を持ち上げる。
そして視線を紅へと移動させた。

「どうして…」
「…隊長。俺は――――――」

続いた言葉は紅以外に届かないようにと、極限まで抑えられた声だった。
その内容に彼女は目を見開く。
濡れた睫を何度か瞬かせ、彼の言葉を理解するとゆっくりと頷いた。

「別れ話は済んだかい?」

耳に届いた声に、紅は鋭利な眼光をそちらへと向ける。
ザワリと総毛立つような彼女の殺気にその場の空気が揺れた。
しかし、声の主藍染はそれすらも心地よいとばかりに笑みを深める。

「零番隊の諸君には本当に頭を悩ませられる。隊長にのみ不必要なまでの忠誠心」

彼は芦崎、霧渡と視線を動かしながら最終的に紅へとそれを戻す。
すでに傍観者となっている他の隊長、副隊長など彼にとっては気にかける必要など無い存在だ。

「本当の目当ては君じゃないんだが…まぁ、歓迎するよ霧渡くん」
「…連れて行かせやしませんよ。大事な人なんですから」

傷つき、その痛みに耐えながらも彼はそっと片方の口角を持ち上げた。
挑発めいたその笑みを受け、藍染は内心舌を巻く。
命の保障すらないこの状況でそれを言ってのけた彼に対して。

「悪くない人材だ」

呟いた声は誰に届く事もない。
彼の声に誘われるかのように、その足元が不安定に揺れる。
地面もろとも彼の身体を持ち上げつつある光の柱。
四本それぞれの内にある人物に対して、その縁のある者が声を上げた。
否定、決別、謝罪―――様々な感情が行き交う。

紅は藍染から目を逸らし、浮かび行く霧渡にそれを向けた。
彼も同じく彼女に視線を返していて、安心させるようにと唇を開く。
ゆっくりしたそれの動きを正確に読み取るには時間が掛かったが、紅は持ち前の集中力で瞬時にそれをやってのけた。
『大丈夫ですから』短い唇の動きはそれを告げていた。
自身に言い聞かせるように脳裏で何度もそれを反復し、彼女は頷く。

閉じていた亀裂は、本来のあるべき姿へと戻るかのようにゆっくりとその口を閉ざした。
完全なる別離は、静寂を連れ立って風を吹かせる。















膝から崩れ落ちた紅は、自身の手が傷つく事も省みずに地面に拳を打ちつけた。
負傷者の周囲を四番隊が忙しなく駆け回る。

「何故…私から奪う…っ」

父と母を、新たな場所で得た何よりも大切だった居場所を奪った。
親交を深めた仲間二人と部下一人は彼の手により重体。
そして、今目の前で最も信頼する部下が彼の手に落ちた。
許す事は出来ないと身体が叫びをあげる。
何より、その元凶を見送る事しか出来なかった自分に対しての怒りが溢れた。

「隊長、霧渡さんは何を言っていたんですか…?」

彼女の行動を言葉の力で以ってして制する。
紅は地面に落としていた視線を芦崎の方へと持ち上げた。
そして口を開く。

「霧渡は―――」

だが、彼の言葉を紡ごうとして、ふと脳裏に浮かびあがる記憶。
すぐ近くに居た芦崎にさえ伝わらないようにと、潜められた霧渡の声。
それの意味するところを今の紅に図る事は出来なかったが、それでも口にするべきではないという考えだけは残る。
開きかけた唇を閉ざし、紅はゆっくりと首を振った。

「…手当てをしましょう」

自身にすら話すつもりはないという彼女の意思を汲み取った彼は、一つ息を吐き出してそう言った。
丁度、こちらに四番隊員が駆けてくるのが見える。
立ち上がる事すら出来ない負傷者はすでに治癒が始められていた。

「動かないでください、雪耶隊長!」

紅が膝に力を入れて立ち上がろうとするのを、駆け寄った四番隊員が制する。
命に別状は無いと判断できるが、それでも動けば傷は開くし彼女が重症である事も変わらない。

「…大丈夫だから」

笑顔を浮かべて安心させたつもりであろうが、紅の行動は全くの逆効果を生む。
普段の綺麗な微笑ではなく、無意識とは言え眉を顰める笑顔で安心できる筈が無い。
何より、彼女の足元に滴る赤い溜りが傷の重さを如実に示しているのだ。

「何を根拠に言ってるんですか」

溜め息混じりに芦崎はそう言った。
彼の声に返事をしようと僅かに振り向いた紅の身体が揺れる。
芦崎は自分よりも細い身体を、今度は肩の傷に触れぬよう難なく受け止めた。
傍でどうするべきかと思案していた四番隊員が「雪耶隊長!?」と驚きの声を上げる。
彼に受け止められた紅は、そのまま意識を失っていた。

「宜しくお願いします」
「はい!」

身体を染める赤を除けば、まるで眠るような紅を地面へと横たえる。
すぐさま処置の準備に入る隊員を横目に、芦崎は彼女を見下ろした。

張り詰めていた緊張感が解け、自身を保っていられるほど軽い怪我ではない。
痛覚が麻痺していると言う事は、身体がそれだけ危険な状態を歩んでいたと言う事だ。
尤も、あの時は霧渡の事で完全に頭から抜け落ちていたのだろうが。

「…まったく…あなたと言う人は…」

もう少し自身を気遣えと言いたい。
それでも、こんな彼女だから零番隊の隊員は本心から彼女を慕う。

「雪耶は大丈夫か?」
「軽症ではありませんが、命に別状はありません。ただ、酷く体力を消耗しておられますので…」

不意に、背後からの声に四番隊員は手を休めずに答える。
声を掛けた浮竹は「そうか」と静かに答え、芦崎の方を向いた。

「霧渡くん、樋渡くんが共に行動不可。君には色々と厄介ごとが回るだろうが…」
「構いません。霧渡副隊長の言葉を受け、非力ながらも代役を務めます」
「…頼もしい限りだ。連絡は全て君に回すよう手配しておこう」

そう言って彼は総隊長の元へと歩く。
その背中を見送り、芦崎は息を吐き出した。





ぐるりと丘を見回せば、あちらこちらで治療中の様子が目に入る。
残された爪跡は深く、そして重い。

この戦いは終わりではなく、始まりである事を…この場の誰もがそれを感じ取っていた。

06.05.28