Raison d'etre  sc.060

白い、最後の戒めを解く。
その下に刻まれていた傷跡も、今となってはその痕すら残っては居なかった。
陶磁器のようなその肌を見下ろし、紅は溜め息を一つ零す。
漸く、怪我を完治させる事ができた。
それが完了した今、彼女にはなすべきことが在る。

「紅、用意は出来たか?」
「冬獅郎?」

襖越しに声を掛けられ、見えているわけも無いのに晒していた胸元を隠す。
そうして慣れた手つきで死覇装に身を包んでいきながら「もう少し」と声を返した。
そこから立ち去らない気配に、紅の手の動きは早まる。
シュッと最後に羽織の帯を締め、内側に入ってしまっている髪を背中に引き出せば準備は完了だ。
一度自身を見下ろすと、彼女は何を言うでもなく行き成り襖を開く。
と同時に背中から倒れこんでくる人影。

「……………」
「……………」

両者の間に沈黙が走る。
襖に手をかけたまま見下ろす紅と、組んだ腕を解かないままに畳の上に転がって見上げる日番谷。
後者の姿勢にいたっては、そのまま壁に凭れかけさせれば何の違和感も無い『人待ちの姿勢』が完成だ。

「……何してるの」
「……開けるなら先に言え」

有り得る意見ではあるが、自室の襖を開けるのに態々声を掛ける必要があるのだろうか。
そもそも、動くと分かっている襖にもたれる方が悪い、と言うのが紅の意見だ。
一度身体を折ったかと思えば、トンと畳を蹴って瞬時に立ち上がる彼。
パンッと死覇装に付いた皺を払うような仕草は様になっているが、残念ながらその頬の赤さは隠せていない。
驚きで笑う事も忘れていたが、純粋に思い返してみれば何とも面白い格好だ。
未だ襖を開けたときと同じ姿勢の彼女をじろりと睨む日番谷。
それが、紅の我慢の限界だった。











「っはー…お腹痛いわ…。怪我が治ってて良かった」

もう一度傷口が開くじゃない。と文句を言いながらも口元は緩んでいると言う矛盾。
対して、彼女の隣を沈黙のままに歩く日番谷の口元は、貝さながらに固く結ばれている。
油断と言えば油断なのだろう。
彼らしくも無い行動だったと、改めて思う。

「…私の代わりに、悩んでくれてたの?」

クスリと笑みを含ませてそう言えば、面白いほどに跳ねる隣の肩。
それが答えだと言っているような物だ。

「気にしなくていいのよ。色々と悩んで、自分でも最善の方法を取った…いいえ、取るつもりだから」

過去形にしなかったのは、これからそれを行ってくるからだ。
彼女が何をしようとしているのかに気付いた日番谷は、ピタリとその場で足を止める。

「それでいいのか?」
「一番いい方法だと思う。そんな所で立ち止まっていたら邪魔よ?」

後ろから書類の山を抱えてくる死神を見とめ、紅は日番谷の腕を引いた。
書類の山の高さは彼の身長以上。
何とか前は見えていても、あの死神からは日番谷の姿は見えなかっただろう。
彼女が腕を引いて道を開けさせなければ、背後からぶつかられる上にあの大量の書類が廊下に舞い散る。
見ていた手前手伝わないわけにも行かない周囲の死神に多大な迷惑をかける結果となっただろう。

「気をつけてね。前を見ているつもりでも死角は多いわ」
「はい!あ、雪耶隊長。任務復帰、おめでとうございます」

休養を取っていた(紅からすれば取らされていた)事を知っている死神らしい。
嬉しそうに笑顔でそう言ってくれた彼にお礼を言って、紅はまた歩き出す。
今度は置き去りにしないように、自分で歩き出してくれるまで彼の腕を引いて、だ。

「お前はあいつらの期待なんだぞ」
「力の無い期待ほど迷惑な物はないわ。さ、冬獅郎も自分の仕事に行って」

零番隊への道は右、十番隊への道は真っ直ぐと言う曲がり角に到着し、紅は行く先を指して彼にそう言った。
じっと紅を見つめていた日番谷だが、結局それ以上何も言わずに彼女に背を向けて歩き出す。
その背中を見送ると、紅は一度深呼吸をした後、右には曲がらずに左の道を進みだした。
その先に在るのは、一番隊。
この時、日番谷が踵を返していた事など、彼女が知る由も無い。

















「傷は癒えたようじゃの。仕事は多い、だが、無理せぬようにな」
「ありがとうございます」

総隊長への挨拶をした紅は、そう締めくくられて頭を下げた。
そして、改めて決意を目に宿して彼を見る。

「任務復帰のご報告の後に不躾とは思いますが…私から報告させてください」

真剣な紅の眼差しに、総隊長は口を噤んで椅子に座りなおす。
先を促すような目を彼女へと向け、彼はただ続きを待った。

「私、零番隊隊長雪耶紅は、本日付で零番隊を除隊させていただきます」
「…理由は」
「すでに卯ノ花隊長よりお聞きしている事と思いますが、今回の一件で私は治癒霊力しか持たない死神となりました。
戦闘を主とする零番隊には席を置くべきではありません。部下への示しも付きませんし…」

最後は苦笑に近かったかもしれない。
刀が使えないわけではないし、今までの戦闘スキルが失われたわけではない。
恐らく、現段階でも彼女は部下に勝るとも劣る事はないだろう。
それでも、紅が除隊を決めた原因は…先程の、彼女の言葉の最後にある。

「戦闘に関しては問題ないじゃろう。
今後破面との攻防が激しくなると予想される以上、お主は零番隊に必要な人材…と儂は思うがの」
「だからこそ―――」

彼女の声を遮るように、失礼します、と扉が開かれる。
今まさに続きを発するように開かれていた唇は、新たなる来訪者の存在に噤む以外になかった。

「おぉ、丁度良い所に。お主らの隊長について話していたところじゃ」

姿勢を正して部屋の中に入ってきたのは、実質紅の右腕となっている二人。
霧渡十六夜、そして芦崎一星。
本来ならばここに樋渡透が入るのだが、彼女は未だ藍染から受けた怪我の状態が悪く目を覚まさない。
突然の部下二人の乱入に、紅は驚いたように彼らを見た。
そんな視線を気にする事無く、実に堂々とした出で立ちで進み出る二人。
霧渡は紅の右側に、芦崎は左側に、それぞれ二歩半分の距離を開けて立った。

「――私、零番隊副隊長霧渡十六夜は、現零番隊隊長雪耶の隊務継続を要求します」
「零番隊第五席、芦崎一星。右に同じ」
「…そして、これは零番隊隊員全員の意思です」

そう言って、霧渡は腕に持っていた束を総隊長へと差し出す。
ペラペラとそれを捲った後、彼は紅にそれを向けた。
戸惑いつつも、それを受け取る。

「現世駐在の隊員にも地獄蝶を通じて署名を募ったところ、そこにあるように全員の署名が集まりました」
「…隊長、これでもまだ…俺達が部下では、不満ですか?」

総隊長に向けられていた言葉は、ここへ来て急に紅へとその矛先を変える。
軽く肩を震わせ、彼女は二人を振り向いた。
戻らないはずが無いと言う、確信めいた表情ではない。
まだどちらの可能性も在ると、どこか不安な二つの双眸を見つめ返す事ができず、紅は視線を落とす。
手の中のそれには、一度しか顔を合わせたことが無いような部下の名前まであった。
一度、たった一度しか顔を合わせず、後は地獄蝶などを利用して任務を伝えていた自分を認めてくれている。
口元が緩んでくるよりも、涙腺の方が先だった。
流れるそれを一筋だけに止めたのは、彼女の隊長としての最後の砦だったのかもしれない。

「…総隊長。先程の言葉を撤回します」
「…よかろう。お主の任を減らしておく。代わりに、四番隊へ赴き、治癒のいろはを学んだ方がよいじゃろう」
「わかりました」

そう言うと、彼女はもう一度二人を振り向いた。
そして、笑顔と共に、彼らが尊敬した『隊長』としての表情を浮かべる。

「これからもよろしく、霧渡。芦崎。それから…零番隊の皆」








「所で、この上なくいいタイミングだったわね。一番隊に用なんて無いでしょう?」
「あぁ、あれは…日番谷隊長ですよ」
「あの方が副隊長の所に乗り込んできて、『お前のとこの隊長が馬鹿なことをぬかすから止めて来い』と」
「………馬鹿なこと…」

自分でもかなり悩んだ末の結論が、彼に言わせれば『馬鹿なこと』らしい。
軽く落ち込む気もするが、結局彼女の行動とは真逆へと進みだしたのだから、彼の言い分も間違いではない。
あのままこの二人が間に合わず、総隊長が自分の言い分を聞き入れていれば…彼らを、裏切る事になっていた。

「冬獅郎には感謝…かな。それにしても、この短時間でよく皆の署名が集まったね」
「あぁ、それ偽造です」
「……………は?」
「…副隊長が、全員の意見だけを聞いて反対が無いんだから問題ないと…。
まぁ、そうでもしなければ現世駐在も含めた彼ら全員の署名など到底無理ですからね」
「ま、結果よければ全てよし!お蔭で隊長の暴走も止められましたし」

本物の署名は後日用意しますから、屈託のない笑顔でそう言われ、紅はそれ以上の反論を奪われた。
霧渡の言い回しや口調はいつもとは少し違っていて、それが彼の怒りが込められているように感じてならない。

「仕方ありませんよ。副隊長は日番谷隊長の言葉に誰よりも怒っていましたから」

霧渡が去った後、芦崎が彼女の胸中を察してそう告げた。
そんな答えに辿り着かせたこと自体も許せないらしい。

「ごめん。それから…ありがとう」
「…隊長。我々は言葉を求めているわけじゃありません。あなたは、自分を信じてその道を進んでくれればいい」
「…誓うよ。もう二度と…迷ったりしない」

芦崎は、澄んだ声ではっきりとそう言った彼女に、それでいいんです、と頷いた。

06.10.30