Raison d'etre sc.061
掌に集まった霊力が、熱となって肌に灯る。
その手を少しずつ下腹部へと移動させながら、紅は真剣な眼差しで横たわる身体を見つめていた。
「そこまで」
集中していた紅は、制止の声が聞こえていなかった。
何度呼んでも反応しない彼女に、卯ノ花はその手首を取る事で動きを制する。
途端に、集中の途切れた紅の掌から霊力が拡散した。
その放出を止めるや否や、彼女の身体を襲うのは例えようもない疲労感。
思わず膝を着きそうになった彼女に、卯ノ花は苦笑する。
「無理をしても状況は変わりません。落ち着いて、正確にこなす事が大切ですよ」
「…はい、分かりました」
「随分と顔色が戻ってきています。今日はこの位にして、暫く様子を見ましょう」
横たわる人物…樋渡の額を撫で、卯ノ花は笑顔でそう言った。
治療を始めた当初こそ険しかった顔つきも、徐々に穏やかさを取り戻してきている。
それは、治療が進んでいるからに他ならないのだ。
「次は一週間後にしましょう。それまでに、霊力をあまり消費しないように心がけてくださいね」
「分かりました。また、よろしくお願いします」
そう言って、教鞭を取ってくれていた卯ノ花に向けて深く腰を折る。
サラリと、彼女の背中にあった栗色の髪が流れ落ちた。
「気を張らず、自信を持つのですよ。あなたはすでに私に勝るとも劣らないだけの知識を身につけているのですから」
「私は…まだまだです」
「その向上心は評価しますが、時には認めることも大切です」
肩の力を抜いて、と紅の肩をぽんと叩き、彼女は部屋を出て行った。
卯ノ花の元で治癒の能力を身につけるようになってからすでに一ヶ月。
現世では破面も動き始めていると言う情報を得た今、あまり落ち着いている時間は無い。
卯ノ花は、その焦りに気付いたのだろう。
治療を始めた頃は紙のようだった樋渡の顔色も、今では色を取り戻している。
そんな彼女を見下ろし、紅は目を閉じた。
「認めることも大切…か」
呟いた声は、治癒の能力に対してだけのものではなかった。
この日、日番谷はいつものように十番隊の執務室にて彼自身の仕事をこなしていた。
もう間もなく、自分も現世駐在の死神らと合流する事になるだろう。
こっちを留守にする間の仕事まで進めなければならない。
面倒だとは思いつつも、自分よりも忙しい日々を送る者を知っているだけに文句は脳内に留まっている。
はぁ、と溜め息を吐き出すのとほぼ同時に、襖越しに乱菊が自分を呼ぶのを聞いた。
「何だ」
「紅が来てますよ」
そう言うと、彼女の気配が離れていく。
どうやら、来訪者である紅をこの部屋に通すつもりは無いらしい。
この部屋に通すつもりならば、もうこの時点で連れて来ているだろう。
外で話せ、と言う事なのだろうかと思いながら、彼は重い腰を持ち上げた。
「あぁ、隊長が来たわよ」
乱菊と話しているその背中は、彼女にそう言われて初めてこちらを向いた。
少し驚いたように、けれどもどこか嬉しそうに笑う紅。
そう言えば、お互いに時間が合わなくて、顔を見るのはかれこれ一週間ぶりだ。
「行ってらっしゃい。暫く返さなくていいからね」
ドンと紅の背中を押して笑う乱菊。
一方、押し出された彼女は一時体勢を崩すも、次には何事もなかったように直立している。
まるで物のような言い方に紅は苦笑を浮かべ、それでも「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って日番谷の腕を引いた。
「おい?」
「ここじゃゆっくり話せないから」
そう言いながら彼女はチラリと壁の方に視線を向ける。
そちらから感じるのは、確かな人の気配。
大方、執務室を訪れた紅と日番谷の遣り取りに興味のある隊員が息を殺しているのだろう。
こめかみを押さえつつ、日番谷は溜め息と共に彼女に続いた。
ぽっかりと開いた穴は、あの日のまま閉ざされる事なくそこにある。
ルキアを処刑しようとした磔架の存在は、今は跡形すら残っていない。
真下へと落ちた穴は、その先を奈落にでも続けているようだ。
果ての見えないそれを見下ろす紅は、不意にぐいっと腕を引かれて後退する。
「落ちたらどうする」
「そんな間抜けはしないけど…」
私を何だと思っているんだ、とでも言いたげな視線を受け、日番谷はそれでも首を振った。
ついこの間まで…と言ってももう一ヶ月前だが…休養を取らされていたと言う事実を忘れたわけでもあるまい。
どんな小さな事であれ、大事を取っておくのは当然の事だ。
そんな彼の考えに気付いたのか、紅は少しばかり申し訳なさそうに眉尻を下げた。
腕を引かれるままに歩き出す彼に従う。
前で揺れる銀髪を眺めながら、紅は口を開いた。
「ずっと、温めていた言葉があるの」
ピクリと揺れた肩を見れば、声が届いていないとは思えない。
だが、振り返る事のない彼は、紅のささやかな願いを感じ取ったのだろうか。
向き合って視線を絡ませて欲しいならば、彼女はそう言う状況が出来てから口を開く。
今言葉を発したと言う事は、このままの状態で聞いて欲しいと言う願いの現れに他ならないのだ。
「整理が付くまでは、言わないって…誰でもなく、私自身に誓いを立てた」
中途半端な思いでこの言葉を唇に乗せる事は出来なかった。
自分には一護と言う忘れられない存在がその心の大部分を占めている状況では、言いたくなかった。
「忘れる事は出来ないと思う。だけど、それすらも私の一部だと受け止めてもらえるなら、私は――」
自身の手を取る彼のそれを、やんわりと解く。
そうして足を止めれば、彼はゆっくりとだが振り向いてくれた。
向き直った日番谷の目に映るのは、穏やかに微笑む紅。
「この言葉を、あなたに伝えたい」
そっと自分の手を胸元に重ねる。
まるで、そこに今まで温めていた言葉が在るとでも言うように。
その言葉を最後に、彼女は返答を待つように口を噤む。
だが、待っている時間が苦だと思っていないことは、その表情から十分に読み取れた。
この状況、そして先程からの言葉。
それらの示すところを理解できないほど日番谷とて馬鹿ではない。
ガシガシと銀糸を掻き混ぜ、視線を泳がせる。
「…聞いてやるよ」
視線は彼女に戻さないまま明後日を見つめ、頬に少しばかり朱を乗せて。
ぶっきら棒に告げられた返事に、紅は思わず声を出して笑う。
この状況で照れていない自分も可笑しいかもしれないが、彼の行動は更に面白い。
「そう言う照れるところも、面倒見がいいところも…全部ひっくるめて、好きだよ」
「これから破面の事で色々と大変そうね」
「あぁ、そうだな。俺も暫く現世に行く事になる」
「うん、知ってる。怪我…しないようにね」
「治してくれるんだろ?お前が」
確信めいた表情。
振り向く彼に、彼女は柔らかく微笑んだ。
「………向こうでの怪我は、すぐには治せないわよ」
「じゃあ、治してくれるところまでちゃんと帰らねぇとな」
是非そうして、と少し前を歩く彼の隣に並ぶ。
宛てもなく、歩いていると言うよりは止まっているに近い速度で歩く。
不意に、彼らは猛スピードで近づいてくる気配に気付いた。
「隊長!!樋渡が…!!」
興奮に頬を高潮させる霧渡は、走ってきた所為で弾む呼吸に苦労しつつ必死で言葉を紡ぐ。
彼の報告に彼女の表情に驚き、そして笑顔が浮かんだ。
彼女はすぐさま振り向き、興奮冷めやらぬ様子で日番谷に声を掛ける。
彼は苦笑し、しかし彼女の喜びを分かち合うように頷いた。
一足先に姿を消した霧渡に続くように、二人も走り出す。
踏みしめた数だけ地面に並ぶ二つの足跡が、これからの二人を現しているようだった。
Raison d'etre -日番谷編- 完結
2004.06.27~2006.10.31