Raison d'etre sc.059
半ば身体を引きずるようにして、ここまでやってきた。
目の前に見える見慣れたそれは、自分の所属する隊の扉。
一つ深呼吸をすれば、どこか呼吸が楽になったような気がする。
いつかは向き合わなければならない、この自分自身の変化。
だが、それは今でなくてもいい筈だ。
一度は閉じた目を開き、紅はゆっくりと一歩を踏み出した。
通された部屋は、ここ数日何度も訪れた場所でもある。
とりあえず、時間の潰し方だけは見出していた。
紅の筆跡で書かれた報告書の束を見下ろしながら、一護は窓際に座る。
これを読んでもいいかと尋ねれば、彼女の副官は首を傾げながらも了承の返事を返した。
何も面白いものは載っていない、と言われた通り、差し当たって目を惹かれるものは何もない。
だが、彼女の今までの行動が残されているそれは、彼にとっては時間を潰すには十分だった。
紐で綴じられた束は、持っていればそれなりの重量を手に伝えてくる。
それは、同時に彼女がこの場で過ごしてきた時間の重さのようにも感じられた。
もう一時間もすれば、この世界とも別れを告げることになる自分。
事が終われば彼女とゆっくり言葉を交わすことも出来るかと安易に考えていたが―――現実は無慈悲だ。
全てが終わって一段落して、一護が通されたのは真っ白な部屋。
その部屋の中央には、物言わぬ紅が静かに横たわっていた。
命に別状はありません、とあの四番隊の彼女に言われなければ、恐らく悪い方へと勘違いしただろう。
「結局…会えないままか…」
ふと、文字の羅列から視線を持ち上げた一護は、小さく呟いた。
出来るならば目を覚ました彼女を見て、安心してから帰りたい。
だが、帰りの門を開いてもらう手前、そんな文句は言えなかった。
このままでは握りつぶしてしまいそうだと、自嘲の笑みを浮かべた後報告書を机の上に乗せる。
それとほぼ時を同じくして、机の向かいに位置する扉が開かれた。
「…紅?」
「人を幽霊でも見たみたいな顔で見つめないでよ。穴が開きそう」
クスリと笑い、紅は慣れた調子で室内を歩く。
後ろ手に閉められた扉が音を立てて閉じる。
「もう、大丈夫なのか?」
「うん。心配かけてごめんね」
とても大丈夫とは言えないけれど、気丈にも微笑む紅。
そんな彼女をじっと見つめていた一護だが、やがて納得したように視線を外した。
いや、恐らく納得したのではなく諦めたのだろう。
一度言い出した彼女は梃子でも動かないと言う事は、よくわかっている。
それに、こうしてギリギリとは言え言葉を交わすことが出来てよかった。
「帰るんだよね」
「あと一時間くらいだな」
「そっか。…気をつけて」
「?ああ」
何に気をつけるんだ?とでも言いたげな視線を向けてくる彼に、紅は黙って視線を逸らした。
彼は、現世に向かう門の先に在るものを知らないのだろう。
こちら側が開く正式な門だから、今度はゆっくり安心して帰る事が出来ると信じて疑わないのだ。
ここで言ってしまうのも一つの手だが…紅は、沈黙を選んだ。
「何か…浦島太郎の気分が少し分かる気がする」
紅は近くにあった椅子を引いてそこに腰掛ける。
苦笑を浮かべる彼女の脳裏には、あの日の出来事。
あれから何日経ったのかなど詳しい事は一切聞いていないが、気がつけば藍染は居なくて、瀞霊廷は平穏を取り戻している。
自分だけがあの日に置き去りにされているような…そんな気分だ。
「…嘘、つきたくないから…全部話すね」
視線を天井へと向け、真っ直ぐにこちらに送られる視線から逃れる。
そうして、紅は少し黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「きっと…もう、そっちには行けない」
「行けない?」
「私、冗談抜きで生死を彷徨ったの。致命傷だったから。だけど、それは私の中に在った魂魄の欠片が助けてくれた。
――――でも、それでも足りなかった」
目を覚まして感じた消失感は、これだった。
全霊力を使い果たしてもおかしくは無かったあの状況で助かったのは、一重に自分の中に在った彼らのお蔭だ。
「だから、今までは父さんたちの魂魄の影で眠っていた私自身の霊力が、急に目覚めざるを得ない状況になったの。
そして…肉体の危機に、目覚めたばかりの霊力はその霊質を四番隊が持つ治癒霊力へと変えた」
紅の告白に、彼は口を挟む事無く閉ざす。
天井から視線を落とし、彼をその目に映しながら苦笑を浮かべると、紅は言葉を続けた。
「つまり、私には―――もう、治癒霊力しか残っていないの。戦いに役立たない霊力を持つ私は、現世には行けない」
戦いの中に癒しは必要不可欠だ。
だが、それだけに人員を割くのは賢い選択ではない。
まだ慣れない治癒霊力を持つ紅を現世に向かわせるくらいなら、四番隊員を一人つける方が得策と言うものだ。
それが分からない彼ではないだろう、そう思いながら一護へと視線を向ければ、案の定困惑の色が浮かんでいる。
「なんて顔してるの?何も…死神を捨てなければならないわけじゃないわ」
「そう、だな。中身が多少変わろうが、お前はお前だろ?」
確認ではない、殆ど断定的な言葉。
真っ直ぐに向けられたそれに、紅は視線を落とした。
身体の変化に、一番怯えているのは…自分だ。
自分が自分である事、それは何も変わらないのに、彼に言われて改めて気付く。
状況は変わらないけれど、気持ち的に随分と楽になったような気がした。
「ありがとう」
「?」
「…一護のそう言う優しいところ、大好きだった…よ」
軽く背筋を伸ばすと同時に、鈍い痛みが胸骨辺りを走る。
これほどに酷い傷だったのかと、心中で自嘲した。
「一護…。また、会えて、よかった。ずっと…言いたかった事が、あるの」
「…紅?」
彼女の異変に気付いたのだろう。
一護はその眉間の皺を深めて彼女を呼ぶ。
続きを制するような声色だったが、紅は止まらなかった。
「一緒に…居られた、あの頃は……ほんと、に…楽しかったの。…絶対に、忘れ…ない。っ…ありが、とう」
途切れ途切れであったが、思う事は伝えた。
その達成感が背中を押したのか、紅の意識は深みへと向かう。
「紅!!」
バンと勢いよく扉が開き、ぐらりと傾いだ身体は、一護の手が届く前に別のそれによって抱き寄せられた。
ぐったりとその腕に寄りかかる彼女は、すでに意識を手放している。
「白哉…!」
「…まったく…無茶をする。限界まで堪えるこの根性は見上げたものだな」
溜め息と共にそう紡ぎ、紅が楽なようにと彼女の姿勢を変えたのは、他でもない朽木白哉。
この上なく素晴らしいタイミングでの登場に、一護は思わず彼と紅とを交互に見やった。
白哉がここへ来たのは、無論偶然ではない。
身体も動ける程度に癒えた彼は、四番隊からの許可により執務に戻っていた。
その合間に、彼は廊下を歩く紅を見つけ、その後に続いたというわけだ。
先日まで怪我で眠っていて、未だ目を覚ましたという報告は耳にしていない。
ふらつく身体で前に進み続ける彼女に、身体が勝手に動いた…というのが正しいだろうか。
「紅は!?」
「眠っているだけだ。傷も癒えず、体力も戻らぬうちに動くからこうなる」
呆れたようにそう言ったところで、一番伝えたい本人の意識はない。
もう一度溜め息を吐くと、四番隊へと連れるべくその身体を持ち上げた。
一連の動作を言葉も無く見ていた一護がハッと我に返り、白哉の前に入る。
「紅を…頼む」
ぐっと頭を下げた彼に、白哉はそれが今だけの頼みではないと悟る。
自分がこの尸魂界を離れる事を踏まえた上で、彼女の今後を彼に託しているのだ。
「…今更言われるまでもない」
「………はは。あんた、分かりにくいけどいい奴だな」
素直に任されたとは言わない彼に、一護は笑う。
そんな彼にフンと鼻を鳴らし、白哉は今度こそ歩き出した。
「俺が帰ったら紅に伝えといてくれよ。“元気でやれよ”って」
足早に去っていく背中にそう声を掛けるが、返事は無かった。
だが、彼ならば伝えてくれるというどこか確信めいた考え。
無茶をしてでも会いに来てくれた事を喜ぶべきだったのか、身体を労われと怒るべきだったのか。
結局、答えなど見つかるわけもなく、ルキアが呼びに来るまでの僅かな時間をただぼんやりと過ごした。
俺も楽しかった、ありがとう。
報告書の裏に、たった二言だけ残された一護の言葉。
紅がそれを見つけるのは、彼らが現世に帰ってから一日後の事だった。
06.10.28