Raison d'etre sc.060
見えなかったわけではない。
確かに自分の両目が映すのは、変えようのない事実。
全速力で地面を蹴った彼の身体は、今支えを失って崩れ落ちようとしていた。
嫌だと、頭で考える前に身体が悲鳴をあげる。
「一護っ!!!」
絞り出した声は決して小さくはなかった。
動けばズキンと痛む肩を押さえ、紅は立ち上がった。
死覇装を染める自身の赤よりも更に濃いそれに染まった地面に、血が凍るような錯覚を起こす。
駆け寄ろうと動かす足は思いのほか重く、いつもの瞬歩が上手く機能していない事は明白であった。
地面に伏す一護を受け止めることは出来なかったが、僅かに遅れて彼女は彼の傍らに膝を付く。
入れ替わるように藍染の姿が目の端で消え、そして恋次の肩が赤を噴いた。
いとも簡単に二人を地へと沈めた藍染は、ふと首を振り向かせて紅を一瞥する。
だが、彼女が一護の傍を離れない事を見届けるとすぐに視線を戻した。
口角を持ち上げ、嘲笑うような笑みを浮かべながら。
「やれやれ…面倒な事をしてくれたね。…君が居た事を忘れていたよ」
ルキアを視界に納めた藍染は、それと同時に霧渡の姿を認めて溜め息を零す。
口元に浮かんだ笑みが、彼が焦っていない事を如実に示していたが。
「退がってくれ、と言っても聞かないだろうね。君は阿散井君と同じく頭が固い」
「…彼女を守るのが俺の役目ですから」
霧渡はそう答えると同時に、抜いた刀を地面へと下ろす。
そして自身と、片腕に抱いたルキアを囲うように土の上に多少歪んだ円を刻んだ。
「光遮り、闇惑え。『闇棺』」
彼の声と共に刻み込まれた円が頭上へと黒い光を伸ばす。
黒い円柱が彼らを包み込むように地面に立った。
フィルターを通すかのように変化した視界にルキアが目を見開く。
「これは…」
「結界みたいなもんだ。この中から出るなよ」
そう言い残すと、霧渡はルキアを放した。
すぐにその場に腰を落としてしまう彼女を、返事を待つかのように見下ろす。
やがてその視線に気付いたルキアが目の前の壁に手を伸ばすのを止め、頷いた。
それを見届けて霧渡は壁をすり抜け、ルキアから見れば黒いフィルターを通した世界へと歩いていく。
「これが噂に聞く『不触の黒棺』かな」
鬼道の『黒棺』と似て非なるもの。
そういう意味で、彼の能力を見た死神がそう喩えた。
包み込んだ内部を破壊するのではなく、決してそれに触れさせぬようにと守る為のそれ。
「本当に面倒な子だ」
二度目の溜め息と共に、彼はそっと手を上げる。
先程一護の攻撃を止めた時と同じようにして、白銀の刀が彼の指先一つで動きを止められた。
同じ道を辿るかと思われた霧渡だが、藍染の次なる攻撃を読んでいた彼は刀を受ける前に彼の手を蹴る。
そしてその反動を利用して手首を捻り、彼の指から自身の刀を解放して間合いから脱出した。
「二度も同じ手は食いませんよ」
「口も身体も、枷が無いと随分楽に動けるようだね」
「そうですね。背中にかばって戦うよりは気分的にも楽ですし」
こうして軽口を叩く余裕も出来る。そう言って霧渡は斬魄刀を構えた。
『不触の黒棺』と謳われた守りは一定範囲内から彼が離れた時、そして能力を維持出来なくなった時のみ解除される。
一定範囲といっても優に数十メートルはある為に、彼がこの丘に存在している間はそれは継続されるのだ。
枷と言う表現に眉を寄せるも、藍染の言葉は真実であるが故に霧渡は頷く。
そんな彼に、藍染は笑みを深めた。
「…守るべき者は一人だったかな?」
彼の言葉を耳にして、霧渡は頭の中でそれを反芻した。
しかしそれは一瞬の出来事で、理解と同時に背中を冷たい汗が伝う。
―――今、あの人はどこに居る?
答えを導き出すよりも早く、自身の背を振り向くように身体が動く。
地面のくすんだ赤が広がりを増す。
冷静にならなければと、自身が頭の片隅で鳴らす警鐘に従うことは難しかった。
「…一護っ!」
呼びかければ答えるように肩が揺れるが、それよりも荒い呼吸が耳に付く。
自身に、四番隊に似た能力はあっても、四番隊で通用する能力が無かった事を悔やんだ。
治療は紅の管轄ではない。
ただ呼びかけることしか出来ない自分を、これほど無力に思った事は無かった。
「…っ隊長っ!!!」
もう一度彼の名を紡ごうと開いた口から声が発せられる前に、切羽詰った声が届く。
声に反応して咄嗟に刀を抜くが、衝撃は思った以上に大きく、負傷した左肩を使えない彼女の身体は後方へと飛ばされる。
背中を打ち付けると同時に息が詰まるのを感じ、それと肩の痛みに紅はくぐもった呻きをあげた。
何とか身体を起こそうとするがそれよりも相手の動きの方が早い。
地面に垂直に降ろされた刀は、紅の足を縫い付けるようにそこに沈んだ。
「――――っ!!」
すぐに抜かれる刀に傷口が血を溢れさせる。
見上げた視界で次なる攻撃が迫ろうとしていた。
「それ以上はあかんで」
脇から掠める様にして紅の身体を引き寄せ、独特のイントネーションで話す彼。
痛みに霞む視界で、自身が先程までいた場所に刀が下ろされているのを見た。
致命傷は無いにせよ、少しの筋肉の動きで全身が痛みに悲鳴を上げる。
運動量の多い肩と足への負傷は彼女の行動に大きく影響していた。
「大人しく刀放さんと、次は致命傷やで?」
声の向きや大きさからして、紅はそれが自分に向けられたものではない事を悟る。
鈍った思考ではそれ以上考える事は出来ず、ただ大人しく痛みが引くのを待った。
尤も、痛みからの解放を許さないとばかりに市丸の手は彼女の肩を握り締めていたが。
目の端で先程自分を貫いた東仙の刀が鞘に納まるのを見止める。
失血と痛みで霞みがかった頭で、自身の首筋に添えられた刀の存在を理解し、彼女は眉を寄せた。
紅の首に当てられているものの存在は、霧渡の位置からでもはっきりと見て取れた。
「くそっ!」
悪態をついた後、彼は自身の刀を落とした。
彼女から視線を外さないままに、背後に近づく足音を聞く。
「すまないね、霧渡くん」
心にも無い事を…。そんな事を考えながら、霧渡は刀を片手に近づいてくる彼を睨み付けた。
その行動に意味は無く、瞬きの後彼の身体を刀が深く切り裂く。
自身を保つ事も出来ずに、彼は地面に崩れ落ちた。
ドサリと音が響き、それを見届けた市丸は彼女の首筋から刀を離す。
「ごめんな、紅ちゃん」
その声を聞くなり、彼女の身体は支えを失って崩れた。
動く右手で左肩を押さえるが、すぐに赤く染まるそれに傷口が広がっていることは確かだ。
ズキンズキンと伝わる痛みは未だ引く気配を見せず、動けないと悟りながらも染まった右手で柄を握る。
彼女の行動など、最早気をとられる必要もないとばかりに、藍染は足を動かす。
崩れ落ちた霧渡に遅れること少し、ルキアの身を守っていた黒硝子のようなそれがパキンと砕け散った。
カラカラと重力に従うが、地面と触れ合う前に音も無く消え去る。
守りを失ったルキアに藍染は口角を持ち上げ、最後の一歩を踏み出した。
「さぁ、立つんだ。朽木ルキア」
ルキアの頬を冷たい汗が流れ落ちた。
06.04.27