Raison d'etre  sc.058

霞がかった頭で、朧気ながらも意識を保っていた。
ブラウン管越しの風景のように、手を伸ばしたところで届くはずの無いものを見ているような、そんな感覚。
勇音により脳内に伝えられる霊圧の波から、藍染の真実を改めて理解する。
すでに傷みのない身体を支える誰かを確認する事すらままならず、紅は完全に意識を手放した。














「…っ」

僅かに動かした指先が覚醒を促す。
ゆっくりと目を開けば、白い天井が目に入った。
自分は寝かされているのだと理解するまでに少し時間を要したのは、まだ思考が本調子ではないからだろう。

「お目覚めですか」

問いかけではない言葉に、天井だけを見つめていた視線を少しだけ動かす。
少しで済んだのは、相手が自分の視界に入りやすいよう傍らに歩み寄ってくれたからだ。
言葉に出さずとも、その視線が自分を案じている事が伝わってくる。
自然と、安心させるように口角を持ち上げた。

「霧渡…ごめんね。仕事、溜まった?」
「仕事くらい俺が片付けます。それより、身体に不調は?」

そう問いかけられ、紅は改めて自分自身に意識を向ける。
四肢への神経は問題ないらしく、寝ているがちゃんと動く。
思考の方も受け答えが出来るのだから、まぁ問題はない。
そうして順を追って考えていく中で、紅はふと表情に影を落とした。
その変化に気付いたのか、霧渡が「隊長?」と不安げな声を発する。

「命に別状は無いわ。卯ノ花隊長を呼んでくれる?………話があるの」

霧渡はその頼みに暫し悩むように眉を寄せるが、やがて彼の方が折れる。
分かりましたと言葉を残し、先程から腕に抱えたままだった書類の束を持ってその部屋を後にした。
仕事の合間を縫って寄ってくれたのだと思うと、自然と頬が緩む。
それを自覚しつつ、彼の背中を見送った視線を天井へと戻した。
そして、溜め息を一つ。

「…霊圧が…なくなってる…」

漠然と、けれども確かにそこに在ったもの。
それを失った喪失感だけが紅の心を締め付ける。
あの時、意識を手放す直前に感じたものは、気のせいではなかったのだと否応無しに気付かされた。
















卯ノ花が来るまでの間、紅はベッドから起き上がろうとはせずに大人しく目を閉じていた。
そんな中、カタンと言う小さな足音が耳に届く。
まだまだ調子を取り戻していない身体は、その気配の主を悟らせてくれない。
目を閉ざしている所為か、聴覚がやけに発達しているように感じる。
時折キシリと床を鳴らす音が徐々に近づいてきて、やがてその気配を肌で感じられるところまでやってくる。
そこで、その音の主は足を止めた。

「…紅…」

小さく、寝ていれば絶対に気付かない音量で紡ぎだされた自分の名前。
それと同時に、身体に掛けられているシーツの上に投げ出していた手をそっと持ち上げられた。
それが何かに触れる感覚に、目を閉ざして意識を沈めてくれと訴える瞼を叱咤して、ゆっくりと目を開く。
映りこんだのは輝くような銀色の髪。
持ち上げた自分の手に額を当てるようにして俯く彼は、目を開いた事に気付いていない。
ただ、祈るように紅の手を握る力を強めた。

「…冬獅郎」

呼ぶつもりなど、無かった。
だが、いつの間にかその名前が口をついて零れ落ちる。
彼の声と同じくらいに小さいものだったが、紅はその肩が僅かに揺れたのを見た。
ゆっくりと頭が持ち上がり、その翡翠色の眼に自分の姿が映る。
その部屋の音全てが遮断されたような沈黙が二人を包む。

「―――――………目を覚ましたのか…?」

様々な言葉が脳内を過ぎるが、結局零れたのはそんな当たり前のものだった。
しかも、疑問系として語尾が僅かに持ち上げられている。
自分で見ている現実を信じられないのだろうか、と思うと、少しばかり笑いが込み上げてきた。
それを隠せなかった紅は、クスリと微笑む。

「ん。心配かけた?」

未だに握られたままだった手を握り返し、そう問いかける。
呆けたように自分を見下ろしていた彼だが、やがて小さく頷いた。
そんな彼に微笑を苦笑へと摩り替えて「ごめんね」と謝ると、彼は思い出したように紅の肩をガシッと掴む。

「動けるか?」
「え、うん。…多分」

まだ試した事はないので、どちらとも判断はつかない。
一応「多分」と付け足しておいたのだが、彼にとってはそれで満足だったらしい。

「なら、よく聞け。今日の正午現世への穿界門を開く」
「…ちょっと待って…。私、そんなに眠ってたの?」
「ああ。正確な期間は、俺も一昨日に目を覚ましたばっかりだから知らねぇ」
「…あと、どれくらい時間があるの?」

ベッドからでは、その位置関係により外の様子が見えない。
無意味だと知りつつも窓の方へと視線を向け、紅は問いかけた。
それに対し、日番谷は少し悩むように口を噤み、やがて開く。

「一時間半…だな」
「…それだけあれば十分だわ」

そう答えると、紅は白いシーツの上に手をついて身体を起こす。
傷口の上には包帯が巻かれている。
すでに塞がっている傷口は、身体を動かせばズキンと痛んだ。

肩口からざっくりと斬られた紅は、この数日文字通り生死を彷徨った。
日番谷たちの治療を優先してくれと言う彼女の願いを聞き入れた卯ノ花は、彼女を最後に回す。
すでに意識のなかった紅を支えていた霧渡は、それに不愉快そうな表情を浮かべつつも卯ノ花に彼女を託した。
彼が口を挟まなかったのは、それが紅の意思だったからに他ならない。

「…本当に、大丈夫なんだろうな?」
「今無理したところで死んだりはしないわ」

安心して、ととてもではないが安心できないような白い顔色で紅はそう言った。
日番谷の眉間に皺が刻まれるが、彼女に引くつもりなど無い。
やがて折れるのが彼の方だと言う事は、言うまでもないことだろう。

「黒崎一護にはギリギリまで零番隊の執務室に居るように言ってある」
「…気が利くのね。止めるかと思ったけど…」

寝ていた所為で乱れた髪を手櫛で整えながら、紅はそう笑った。
そんな彼女の言葉に日番谷は首を振る。

「止めても無駄だろ?」

分かりきっている、とでも言いたげに笑む彼に、肩を竦めることで答える。
肩を首の方に引き寄せてしまった所為か、またズキンと傷が痛んだ。
だが、それを気のせいと思い込み、紅は自身の足で床に立ち上がる。

「無理はするな」
「…わかったわ」

その微笑がどうしようもなく儚く感じ、彼は思わず「行くな」と紡ぎそうな唇を理性で閉ざす。
漆黒の死覇装ではなく、白い着物に身を包んでいる所為か、より一層その感覚が高められる。


少しふらつく背中を見送り、日番谷は溜め息と共に俯いた。

「…止められるわけねぇだろうが…」

今生の別れ、と言うのは少しおかしいかもしれないが、彼とは住む世界が違う。
それを彼女が苦悩していたことは、誰よりも理解しているつもりだ。
そんな自分が、彼女を会わせない訳にはいかない。
たとえ心の奥底がそれを拒んだとしても。

ガシガシと銀髪を掻き混ぜると、彼は小さく舌打ちして歩き出す。













「隊長、卯ノ花隊長はもう少し………」

足音を控えるように静かに入ってきた霧渡が見たものは、もぬけの殻となったベッドだ。
不自然に捲れたシーツが、そこに誰かが居た事を教えている。
普段ならばここで声を荒らげるところ。
しかし、今回の彼は一味違った反応を見せた。

「…行ったか…」

彼とて、今日の出来事を知らぬはずが無い。
彼女がこの場に居ないと言うことは、誰かがそれを伝えたと言う事だ。
霧渡は自分よりも背が低く、けれども隊長として『十』を背負う人物を脳裏に思い浮かべる。
自分が目を覚まして以来、誰も居ない頃を見計らって彼が紅を見舞っていた事は知っていた。
知っていたからこそ、四六時中ついていたい気持ちを抑えて部屋を空ける時間を作ったのだから。

「つくづく日番谷隊長も辛い立場だよなぁ」

敵に塩を送るなんて、と髪を掻き揚げる。
当人同士の問題に口を挟むつもりなど、彼にはない。
ただ、紅の表情さえ翳らなければ、彼にとっては誰が隣に立っていようが構わない。
自分が歩きたいのは、彼女の隣ではなく背中の見える位置なのだから。

「さて、と。樋渡の様子でも見てくるかな」

誰も居ない部屋に用は無い。
そう言いたげなほどに軽やかな足取りで、霧渡はその部屋を後にした。

06.10.23