Raison d'etre  sc.057

卯ノ花は自身の副官を連れ、慌しく廊下を進んでいた。
自分の考えが正しいならば、彼はこの先にいる。
第六感とでも言うのだろうか。
何かが、彼女をその場所へと駆り立てていた。
急がなければと言う思いだけが、彼女の背中を後押しする。

「卯ノ花隊長、雪耶隊長は無事なんでしょうか…」

足を急がせる道中、沈黙に耐え切れなくなったのか勇音がそう声を上げた。
質問を向けられた卯ノ花は彼女を一瞥すると、そのまま足を止めないままに口を開く。

「無事、とは言い切れませんね」
「…急ぎましょう!」
「ええ」

そう言って足を速めた勇音の背中を見つめ、卯ノ花は目を細める。
今は亡き友人の娘の無事を祈る、切実な想いが彼女の内を占めていた。
どうか、何事も無ければいい。










僅かに弾む息を抑え、卯ノ花は目の前の光景にその唇を動かす。
立っている背中は自分よりも一回り小さい。
けれど、その背筋は真っ直ぐに伸ばされ、酷く縋りたくなるような…そんな頼りがいのあるもの。
無事だったと安堵すると同時に、雪耶隊長、と背中の主を呼ぼうとして、卯ノ花の声は掠れる。
その小さな背中は揺らぎ、膝から崩れるように地面に伏した。
身体が完全に床に伏すと同時に、ガシャンとその手の中から刀が転がり落ちる。
最後の最後まで刀を手放さない彼女の姿勢は、死神としては褒められるべきものだろう。

「紅!」

思わず喉を突いて飛び出した言葉は、いつもの呼び名ではなかった。
驚く勇音や、紅の向こうに佇む藍染の表情など関係ない。

「何て無茶を…」

声を荒らげる事すら珍しい卯ノ花。
彼女の行動についていけないのか、邪魔をするような声はない。
床に伏した紅の傍らに膝を着き、その額に掌を翳す。
手首を取れば微弱ながらも脈を感じ取る事ができ、僅かに安堵の色を浮かべた。
だが、極度に弱っている事実に変わりは無い。

「なるほど…。思い返してみれば、雪耶は君の友人だったね」

藍染は漸く納得した、とばかりに頷きながら呟いた。
彼の指す『雪耶』とは紅の事ではなく姶良の事だろう。
友好関係があれば、その娘を名前で呼ぶ事に違和感はない。
その呟きを聞きとめた卯ノ花は、一旦紅から視線を外して藍染を見上げた。
膝を着いたまま、これ以上紅に近づくようならば自分が彼女を護れるように。
それに倣うように、今まで動く事を忘れていた勇音も彼女の傍らにつく。

「やはり此処でしたか。藍染隊長。
…いえ、最早“隊長”と呼ぶべきではないのでしょうね。大逆の罪人、藍染惣右介」

僅かに怒りの色を滲ませたその眼が、彼に向けられる。





藍染は自身の偽りの死に関する種明かしをし、そして斬魄刀に関しても語る。
そう長い時間ではなかったが、短いと言えるほどでもなかった。
気がつけば彼は市丸と共にすでに姿を消す間際で、終始浮かべていた笑みをより深めたところだ。

「雪耶の事は、今回は諦めておこう。さようなら。君達とは、もう会う事もあるまい」

引き止める声も空しく、藍染は市丸の放った布に、彼共々その姿を掻き消した。
彼の位置を探る役目を勇音に任せ、卯ノ花は紅に向き直る。
うつ伏せで倒れていた彼女を仰向けにすれば、その身体を弱らせている原因が分かった。

「酷い…」

手元に来ないならば、その命すら惜しくは無い。
それを如実に告げているような、大きな傷跡。
右鎖骨の辺りから左のわき腹に掛けてざっくりと裂けた死覇装の下に、未だ鮮血を溢れさせるそれはあった。
すぐに治療を、と手を伸ばす卯ノ花。
だが、彼女の手は脇から伸びてきた白い手に掴まれる事によって阻まれる。

「紅…手を。すぐに治療を始めますから」
「…っ…」

空気の塊を吐き出すように口を開き、しかし声は出てこない。
それでも、ただ首を横に振る。
話せないならば、せめて何かで伝えたい。
紅は視線だけを動かした。
その先にあるものに気付いた卯ノ花は僅かに眉を寄せる。

「彼らに必要な治療は、あなたの後すぐに行います。今は…」
「わ、たしは…。自分…で…っ」

なおも治療を進めようとした卯ノ花の手を完全に自分から外す。
身体を起こすように力を入れれば、傷口から新たな赤が流れ出た。

「動いてはいけません!」
「…大丈夫、です。隊長…は彼らの、治療を…」

先程よりもスムーズに紡がれる言葉に、彼女は軽く目を見開いた。
半ば身体を引きずるようにして壁に背中を預けて座りこむ紅。
彼女の胸元の傷は、ほんのりと霊力を纏っていた。

「解放し続ければ、いずれ枯渇しますよ」
「…彼らの、治療を」
「―――…わかりました」

自分の霊力を使って怪我の悪化を押さえ込んで尚、彼らの治療を求める紅。
その瞳の奥に見える彼女の思いに、卯ノ花はそれ以上何も言えなかった。
一番に治療を進めたいのは紅だが、本人はそれを拒む。
自身の霊力を削ってでも彼らを優先させて欲しいと言うその想いを汲み取る他、道は無い。

「無理だと思ったらすぐに声を掛けてください。分かりましたね?」

そう問いかければ、紅はただ一度だけ小さく頷いた。
最早、声として返事を返す事も辛いのだろう。
出来るだけ早く彼女の元に戻れるようにと、卯ノ花は倒れこんでいる日番谷の元へと急いだ。












延命治療を施されている日番谷を視界の端で捕らえつつ、紅は自身に向けて舌打ちする。
白哉に修行をつけてもらうようになってもう随分経つ。
それなりに実力もつけ、そこらの死神には負けないと言う自信もあった。
現に自分はこの白い羽織に袖を通し、『零』と共に多くの部下を持っている。
それなのに、この様は何だ。

「情けない…」

市丸に深月が通用したのは、彼が油断していた事と深月を知らなかったから。
その後の藍染にいたっては―――決着は一瞬だった。
あなたを斬ります、と大口を叩いても、結局その髪一筋さえ傷つける事は出来なかったのだ。
明らかな実力差に沈み込んだ紅は、唇を噛み締めた。
すでに口内は血の味が充満していて、今更唇のそれが伝ったところで何かを思う事もない。
遣る瀬無い苛立ちだけが、彼女の中に残っていた。
あの瞬間に浮かべられた笑みが優しすぎて、慕っていた頃の藍染を思い出してしまった事など…言い訳にもならない。

「悔しい」そんな想いが、時が刻まれるごとに増えていく。
それに反比例するように遠のいていく意識に、紅は逆らう事無くその身を任せた。

「隊長…!」

そんな声が聞こえたのは、幻聴なんだろうと、意識を手放す直前に考えた。

06.10.11