Raison d'etre  sc.056

「ここは?」
「そこは八番隊の担当区域ですよ」
「八番ね…じゃあ、ここ」
「どこですか?………あぁ、そこは…完全禁踏区域です」

広げられた地図の上を指差し、紅は隣に立つ樋渡との話を進める。
紅が改めて指差した場所を見て彼女は答えた。

「清浄塔居林。四十六室の為の居住区域です」
「禁踏区だなんて…大層な事ね」
「本当ですね」
「言うならば…『不可侵の領域』」

紅の言葉に樋渡は「確かに」と頷いて笑う。
そんな、日常の一瞬が紅の脳裏に蘇った。












忘れてしまうにはまだまだ日は浅くて、決して古いとは言えない記憶。
その中で確かに会話として残っていた場所を思い出し、紅は足を走らせる。
あれだけの傷を抱えながらも背中を押してくれた白哉に恥じぬ様、ただその足を加速させた。

「樋渡…」

自分の知らない所で事が起こりすぎていて、何がどうなっているなどと想像することすら難しい。
言い知れぬ不安が胸を掻き立てる中、それに身を任せるようにして足を動かした。

「―――っ!!」

不意に感じた空を伝わる霊圧の揺れ。
覚えのあるそれに紅は軽く目を見開いた。

「冬獅郎の…卍解…?」

呟きと同時に目の前の建物から大きな振動と音が発せられる。
驚いている暇などなかった。

















瞬時に眼前に広がる光景を理解することなど出来なかった。

地に伏す人影が二つ。
立っているそれは三つ。

だが、その一人の身体が大きく傾いた。
半透明な氷の上に舞う赤がより美しく映える。

「冬獅郎っ!!!」

立っている二人の人物にわき目も振らず、紅は彼の傍らに膝を付いた。
斬魄刀を取り落とした彼の手首を取り、微弱ながらもその下に流れを感じ取る。

「思ったより早かったな…」
「すんません。六番隊長とあの子の決着がこないに早うつくとは思いませんでしたわ」
「構わないよ。数分、遅いか早いかの違いだ」

そんな会話を聞き、紅はその顔を持ち上げて二人を映す。
それと同時に彼女は目を見開いた。
彼の後ろに、誰かが伏しているのを捉えたからだ。

「樋渡っ…雛ちゃん…っ!!」

喉の奥がカラカラに乾いていて、その声を絞り出すのがやっとだった。
二人に駆け寄ろうにも、腕に抱いた日番谷の身体を置く事が出来ない。
手を離してしまえば、彼の微弱な呼吸すらも奪ってしまうかのような、そんな印象すら与えられる。
それは錯覚かもしれないし、現実かもしれない。
ただ分かるのは、腕の中の存在が夢のように儚いものだということだけ。

抱きしめるようにして、深い傷の上に手を当てる。
ぬるりと伝わるその独特の感覚に背筋が凍りつくような何かを感じつつ、治療だけを考えようとする。
今まで治療に霊力を使おうとした事は何度もあった。
だが、やはり四番隊ではない紅にとって、それは未知の世界。
どうやっても上手くはいかず、悪化を防ぐように治癒霊力を流す事しかできないのだと自身の限界を悟った。
そんな自分の限界を、この時ほど恨んだ事はない。

「あまりその霊力を使わない方がいいよ、雪耶。君は元々四番隊には向いていない」
「…っ」

場違いな明るい声でそう言った藍染を睨みつけ、紅は唇を噛んだ。
彼が言っている事は正しい。
自分でも、これを使う度に普段霊力を使う時よりも明らかに速い速度で疲労が蓄積されるのを感じている。
肉体を動かす動力そのものを、根こそぎ奪われていくような感覚だ。
藍染の言う事が正しい、だからこそ、苛立ちを隠す事が出来ない。
同胞であるはずの日番谷が血に染まるのを見ても眉一つ動かさない彼も、これしか出来ない自分も。

「…何故…彼を斬ったのですか…っ!」

死んだはずの彼が生きている事よりも、彼が日番谷を斬った事が信じられない。
そんな紅の声に藍染は今までの、あの優しい笑顔を浮かべた。

「邪魔だったからだよ。ただ…それだけだ」
「…そんな…」
「あぁ、でも少しは役に立ってくれたな。お蔭で君を呼ぶ手間が省けた」

それだけで十分だな、と彼は言う。
カッと頭に血が上るのを感じた。
いくらか出血の収まった日番谷の身体を床に横たわらせると、そのまま右手を刀の柄へと運ぶ。
血に濡れた掌が触れた部分が赤く染まるが、彼女は気にしなかった。
スラリと姿を現す刀身に藍染の笑みが深まる。

「それ以上霊力を消費しない方がいい。死神として生きていきたいなら、ね」
「…あなたが冬獅郎を斬ったというならば…許すわけにはいきません。例え、その道が途絶える事になったとしても」
「あの人間はいいのかい?君が護ると決めた、あの死神は」

彼の言葉を遮るように、紅はダンと床を蹴った。
そのまま、彼を両断するように刀を縦に振るう。
しかし、ギィンと鈍い音がしてその刀は止められた。

「…退いて下さい、市丸さん」
「それは聞かれへんお願いやな」

藍染と紅の間に身体を滑り込ませたのは市丸。
彼は自身の斬魄刀で彼女のそれを易々と受けとめた。
力比べに持ち込めば、自分が負けるのは必至。

「熔けよ、深月!」

紅の声が響くとほぼ同時に、彼女の持っていた刀の刃がスルリと市丸のそれを通り抜ける。
まるで空気の間を通したかのような抵抗の無さに、彼の体勢が一瞬崩れた。
それを見逃すはずも無く、紅は軽く身体を沈ませて床に平行に薙ぐようにして彼の足を斬りつける。
だが、彼の足には傷一つ残らない。

「面白い斬魄刀や………!?」

最後まで言葉を紡がせる事なく、彼の身体がぐらりと傾いた。
紅はその下敷きにならないよう身を引きながら、もう一度刀を振るう。
舞うような遠心力を生かした動きと共に繰り出された刃は、寸分狂う事無く彼の利き腕の手首を捕らえた。

「…姶良の斬魄刀か…」

その場に膝を着く市丸を見て、藍染は冷静な声を上げた。
そんな彼の目線の先では、市丸が利き腕から刀を持ち替える姿がある。

「…自分…何したん?」

斬りつけられたにも拘らず、傷一つ残らない。
それなのに、一瞬にして力が抜けた。
手首のそれも同様で、とてもではないが刀を振るうことなど出来そうに無い。

「…深月の道は神経を麻痺させる。対象を通り抜ける際に刀身が新月の如く儚く消える…故に深月」
「ギン、無理に動かない方がいい。一時的な麻痺だ」

そう言うと、藍染は一歩進み出て刀に手をかける。
その表情には未だ笑みが浮かんでいる。
しかし、その笑みはどこか薄ら寒さを感じさせるものだった。

「一応、聞いておこうか。僕達と一緒に来る気はないか?」
「…私の在る場所はここだけです」
「…そうか、残念だ」

その言葉と表情は一致を見せない。
音も無く抜き取られた白銀の刀身に紅はぎゅっと深月を構えなおした。
彼の本当の実力は知らない。
こうして対峙しているだけでも、四肢が震えだしてしまいそうだった。
だが、今の彼女には退く事のできない理由がある。
その視線を一瞬だけ床に横たわる日番谷へと向け、もう一度藍染を見た。
慕っていた人物を斬る覚悟を決める。

「私憤ではなく…零番隊隊長として。あなたを斬ります」
「あぁ、構わないよ。君にそれが出来るなら」

一度、深く息を吸い…そして吐き出す。
目の前に立つのは敵だと、自分を洗脳するかのように何度も言い聞かせた。

06.10.08