Raison d'etre  sc.055

「俺の勝ちだ!!!!」

一護の声が双極の丘に響き渡る。
その場を去った白哉の向かった方を見つめていた紅だが、やがて視線を一護のほうへと向けなおす。
ぐらりと彼の身体が揺れると同時に、彼女の身はその場から掻き消えた。

「本当に無茶するよね…一護は」

地面に倒れると思った。
その固い衝撃を覚悟したが、やってきたのは包み込むような優しい感触と、同じく穏やかな声。
身体に無理のかからないようにゆっくりと地面に横たえられた一護は、その声の主を見上げた。
苦笑を浮かべ、その視界に収まるのは他でもない紅。

「…紅…」
「うん」
「………悪かったな」

突然の彼の謝罪に紅は「は?」と間の抜けた声を返す。
そんな彼女の返事に苦笑を浮かべ、一護は重い腕を持ち上げた。
身体の悲鳴を無視する形で、布の切れ端を纏う彼女の肩へとその手を触れさせる。
彼の手をとった紅は漸くその言わんとすることを理解した。

「自分の怪我の心配でもしたらどうなのよ…」

呆れた、それでも優しい声が降ってくる。
困ったような笑みを浮かべた彼女は、持っていた一護の手に自身のもう片方の手を重ねた。
そこから少しだけ霊力を送り込む。

「…悪かった…」
「今度は何に対する謝罪?」
「…お前の…師匠、なんだろ…?」
「………許さないって、私が言うと思うの?」

一護の息が少しばかり楽そうになる。
それを見ながら紅は再び口を開いた。

「止めなかったのも、最後まで見届けたのも…全部私の意志よ。謝られる筋合いなんて微塵もない」
「…そ、か」
「寧ろ、ありがとう。私では白哉さんの考えを聞きだすなんて出来なかったの」

どんなに質問を繰り返しても、返ってくるのは本心ではない建前の言葉。
全てが本心でなかったわけではないが、それでも一護のようにはっきりと告げてはもらえなかった。
だからこそ、それを知ることが出来たと言うことは、紅にとっては喜ばしいことだ。

「我等が掟を守らずして、誰が掟を守るというのだ」

紅は、白哉が紡いだ言葉は、まるで彼自身に言い聞かせているように聞こえた。
それを一護に告げることはなかったが。












「気を使ってくれてるところ悪いけど…私は行くから一護の事を頼んでもいいかしら?」

不意に、紅は背後を見るでもなくそんな言葉を発する。
何の事だかわからなかった一護だが、彼女の後ろからぞろぞろと集う仲間の存在に目を軽く見開いた。
それぞれが無事だったこと、それが素直に嬉しい。

「あの、紅ちゃん…」
「井上さんだったわね?一護の事、任せるわ」

そう言って紅は腰を上げる。
座るのに邪魔だからと脇においていた斬魄刀を腰に挿すと、彼女は旅禍の皆を振り向いた。
そして何を言うでもなく彼らを順に見つめ、最後に一護でその視線を止める。

「…行くわ」
「…あぁ。怪我すんなよ」
「一護に言われたくないわね」

そんな軽口を叩けるならば十分だろう。
紅は彼らに背を向けて歩き出した。

「紅ちゃん!」

背中を呼び止めるように織姫が声を上げる。
驚いたように目を見開き、紅は彼女を振り向いた。
言葉を選ぶように視線を彷徨わせている間、紅は急かすでもなく彼女を見つめ返す。

「何て言ったらいいのかわからないけど…ありがとう!」
「…何が?」
「えっと…その……黒崎くんを助けてくれたこと」

彼女の様子を見て、紅はとある考えに思い至る。
彼女も心配だったのだろう。
そしてきっと…その感情は仲間以上。

「何も出来なかったけど…どういたしまして」

そう言って微笑み、紅は瞬歩でその場から立ち去った。
織姫の感情に気づいた彼女の心が揺れたことなど、誰も知らない。
ただ一人、彼女が笑顔の裏に隠した感情の揺れに気づいた一護以外は。

「…紅?」
「黒崎くん?」
「………や、何でもねぇ」

その理由を問うために走れるほど、自分の怪我は軽いものではなかった。


















羨ましい。

その感情から逃げるように、紅は双極の丘を後にした。
弱くしか感じられない気配を追って足を進めつつ、自身に舌を打つ。

「こんな想い…知りたくなかった…」

そう呟いて紅は自身の拳を握り締める。
短く切り揃えられた形の良い爪が掌を傷つけるのも気にせずに。

「…同じ世界に居られるあなたが羨ましいよ」

小さな声は誰の耳にも届かない。


















「白哉さん!」

廊下の向こうに見えた白哉の姿に、紅は思わずその声を荒らげる。
元々彼を追ってこの場にやってきたのだが、彼の足跡を残すように転々と残る血の跡に気持ちが焦る。

「…紅か」
「動かないでくださいっ!そんな酷い傷で…」

慌てて彼の前へと回り込むと、紅はその進路を断って彼を止める。
彼女を退けてまで進むつもりはなかったのか、白哉はその場に留まった。

「すぐに四番隊の手配をします」
「…必要な」
「ないわけありませんよね?そんな傷をいつまでも抱えておくおつもりですか」

ふざけないでください。とでも言いたげな視線を向け、紅は彼を壁際へと促す。
足元の覚束ない彼の背中を壁に預けると懐に一巻きだけ忍ばせていた包帯を取り出した。
危うく急所を逃れた傷口から近い止血点に包帯を巻き、流れ出るそれを少しでも抑えようと試みる。
表情を歪めながらも真剣に手当てを進める彼女を、白哉は黙って見下ろしていた。

「見るに堪えないなら四番隊に任せればいい」
「…だからって放っておけると思います?」

短く息を吐き出し、紅は白哉を見上げてそう答えた。
そんな事が彼女に出来るはずがないと、確信にも似た考えが脳裏を過ぎる。

「…零番隊の者が来ていたな」
「………芦崎の事ですか?戦いの最中によくお気づきになりましたね」

ポツリと彼の漏らした言葉に、紅は少しだけ考えるように思考を彷徨わせた後にそう頷く。
あれだけ離れていたにも拘らずそれに気づく彼に、培われてきた実力を垣間見た。

「…私の隊員の行方が知れないと。その知らせでした」

言葉に出して思い出したのか、紅はぎゅっと眉を寄せつつそう言った。
事は済んだのだから、樋渡を探しに行かなければならない。
部下に任せておけばいいようにも思えるが、紅がそれをよしとするはずもなかった。

「………行け」

白哉は少しばかり息を弾ませながら言う。
彼の言葉に紅は弾かれたように顔を持ち上げた。

「私の事は四番隊に任せていけばいい。気になるのだろう?」
「でも…」
「………紅。お前は隊を率いる者だ。目先の事だけに囚われるな」

言葉の端に見えたのは、隊長としての威厳や貫禄だった。
紅はほんの少しだけ悩むように視線を揺らし、そして深く頭を下げる。

「四番隊には私が連絡しておきます。…ありがとうございます」

言い終えると、紅は足早にその場を去っていく。
足並みを緩やかにしてしまえば、心配から舞い戻ってしまいそうだった。





向かう先は彼女の言葉通りの場所。

「不可侵の領域………完全禁踏区域」

過去の会話を思い出し、紅は小さく呟いた。
その声は吹き乱れた風へと溶け込んで消えていく。

06.03.07