Raison d'etre sc.047
ザッと石床を踏みしめる音を立て、紅の前に立ちはだかる人物。
彼を捉え、しかし紅はいつものように戸惑いを見せる事はなかった。
「…そんなに瑣迅に似ていますか?私は」
ふと、悲しげな笑みを浮かべて紅はそう言う。
白哉の目がほんの一瞬だけ見開かれた。
「あなたはいつも私を通して…誰かを見ていますよね。私にはそれが誰なのか、わからなかった」
一歩ずつ確実に足を進める。
真っ向から対面しても、心は乱れなかった。
「今なら、わかります。全てを…知ったから」
言葉を紡ぎ終えるなり、紅はその姿を消す。
否、消したように見えた。
抜刀しようとした白哉の手に、細い手がかかる。
「やめましょう。意味がありませんから」
「…止めると言っただろう。今更怖気づいたか?」
彼の言葉に紅はゆっくりとその手を離し、そして一歩下がった。
その顔には笑みが浮かべられている。
「ならば、止めてください。この身体を斬り捨てられれば止まりましょう」
動かない白哉を前に、紅は構える事すらしなかった。
数分の膠着状態を破ったのは。
「お互いに斬る事の出来ない対峙に意味はありません」
そう言って紅は再び足を動かし、今度は瞬歩を使わずに白哉の横を通り抜ける。
草履が擦れた足音を立てた。
「他の隊長は甘くはない」
言葉の裏に含まれたそれに、紅は振り向く事なく「はい」と頷いた。
きっと、彼は自分が振り向く事など望んではいないだろうから。
双極の丘へと向かう紅の足が止まる。
「隊長?」
今しがた合流した霧渡が彼女の行動に首を傾げた。
じっと、懺罪宮を見つめる紅。
「……市丸さん…?」
遠いけれども確かに感じる、彼の霊圧。
小さく零れた声を聞きとめた霧渡が、同じように懺罪宮の方に注意を向けた。
その道に優れていない彼は、この距離では把握しきれない。
それよりももっと近く…瀞霊廷の数箇所でぶつかり合う霊圧に気を取られた。
「…行きますか?隊長」
懺罪宮の彼女の元と、双極の丘…隊長としてあるべき場所。
どちらとも取れる問いかけを、彼は紅へと向けた。
ピンと張り詰めた空気が揺らぐ事はなく、暫しの沈黙が二人を包む。
やがて、彼女は踵を返す事なく歩き出した。
懺罪宮に背を向けた紅を追って、霧渡もその三歩後ろを歩く。
――彼女は大丈夫なのか?
そんな疑問が彼の脳裏を過ぎった。
「もう、離れたから大丈夫」
答えを求めた疑問ではなかった。
しかし、紅は振り向くわけでもなく足を止めるわけでもなく、そう言う。
驚きを隠せない彼を喉だけで笑った。
「霧渡の考えそうな事だから」
楽しげな声に、少しだけ空気が浮上したように思えた。
零番隊の執務室が一番遠かった所為か、彼女の足取りが重かった所為か。
すでに元々集うつもりだったであろう隊長、副隊長らによって、場は異様な空気をもたらしていた。
草履を踏みしめる音が響く。
その場にいた全員の視線が紅へと集った。
「ほぉ…どの隊長よりも来る確率は低いかと思ったが…」
そう声を漏らしたのは二番隊隊長、砕蜂だった。
彼女に感情のない視線を向け、紅は静かにその場に立つ。
普段の紅からは考えられないような『無』の表情に、一部の者が内心眉を寄せる。
いっその事悲哀の表情を浮かべてくれていた方が良かったかもしれない。
そう思わせる程に、紅は儚くも強い空気を漂わせた。
磔架の下に立つルキアは静かに紅を見つめる。
前に居る紅が酷く遠く、別人のように感じた。
「その方が未練はない、か…」
独り言のように零された声を拾い上げた者は居なかった。
閉ざした視界の中で、不意に隣に並ぶ人の気配を感じた。
紅はゆっくりとそれを開き、隣を見る。
そこには苦笑を浮かべた京楽がいた。
「…ごめんね。一応、山じいに忠告されてたんだよね」
「…まぁ、私が邪魔すると思うのは当然でしょうね」
形だけの見張り、と言う事だろう。
一々謝ってくれるあたりに彼の優しさを感じられずにはいられなかった。
「別に命を聞いてくれてもいいんですよ?」
抵抗はさせてもらいますけど、と紅は笑う。
彼らのやり取りは本当に小さな声で行われていた。
聞こえているのは彼女らの副隊長だけ。
「こんなに強く決心した紅ちゃんを止められるわけないでしょ」
「そうですね。邪魔されても踏み倒していきますから」
「はは…君らしい」
結い上げた髪が、ザァッと吹く風に乗った。
それと一緒に心の重さまでも取れたような錯覚を起こす。
紅は「なるほどね…」と思った。
何故わざわざ京楽が声を掛けたのか、疑問を抱かなかったわけではない。
ただ黙って総隊長の言う事を聞いていればいい。
それでも、彼が紅に声を掛けた理由―――。
「お人よしですね、京楽さん」
紅は聞こえるか聞こえないかと言うくらいの音量で呟く。
思ったよりも気を張っていたらしい。
彼と言葉を交わすだけでいくらか肩が軽くなった。
こんなにも人の事を想える人が、ルキアの処刑を素直に受け入れているはずがない。
少なくとも、彼は敵には回らない。
紅はそう確信を持った。
「一人で背負うにはあまりに重過ぎるだろう?」
囁くように優しく、京楽は言った。
「…そうですね」
信じる事を諦めていたと言うよりも、志を同じくする者を見失っていた。
焦りすぎているな、と自嘲気味に微笑む紅。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「限界まで、待ちます。私は…信じていますから」
紅の中に別の覚悟が宿る。
それを見て彼は微笑んだ。
「それでこそ君らしいよ、紅ちゃん」
ぽんっと叩かれた背が、温かかった。
地を踏みしめる足音が耳に届く。
その気配から、振り向かずとも誰が来たのかわかっていた。
ふと持ち上げた視界にルキアが映りこむ。
彼女は驚きにも似た表情で、紅の背後から歩いてくる人物を見た。
「―――に…兄…様…」
白哉はルキアを一瞥するとそのまま目を伏せた。
「朽木ルキア。何か…言い遺しておくことはあるかの?」
総隊長の言葉にルキアは一度目を閉じ、そしてゆっくりと開く。
「――――はい。一つだけ」
Rewrite 05.11.22