Raison d'etre sc.040
宙へと飛んだ日番谷を追うようにして、雛森が床を蹴った。
市丸に気を取られていた日番谷は彼女への反応が遅れる。
先程まで一度も彼女を攻撃する事なくそれを交わしてきた日番谷が、初めて雛森を撃った。
たった一撃でも、彼女の意識を飛ばすには十分。
意識を飛ばした人間が受身を取れるはずもない。
落下の衝撃を少しでも和らげる為に、紅は雛森の落下地点へと瞬時に移動する。
「――――っ!」
勢いをつけて落ちてきた彼女の身体を無事に受け止めると、紅は静かに息を吐いた。
ぐったりとした雛森を優しく床に横たわらせる。
彼女の頬にかかった髪を払いながら、紅は彼女の手元に視線を向ける。
そして、血の滲むそれを目にして、紅は悲しげに目を伏せた。
「血が滲むほど刀を握り締めなきゃならなくなるまで、こいつを追いつめやがって…」
紅の耳にも、日番谷の言葉が届いた。
下げていた視線を彼に向けるようにして持ち上げると、怒りを露にした双眸が紅の視界に映る。
日番谷がゆっくりと身体を反転させる。
「…言った筈だぜ、市丸」
静かにそう言いながら、背に負った斬魄刀に手をかける。
「雛森に血ィ流させたら、てめえを殺す!!!」
鞘を切り裂くようにして、日番谷の斬魄刀の刀身が姿を現した。
そんな彼に対峙していた市丸も同じく、自らの斬魄刀に手をかける。
「紅」
「離れてろ、なんて言葉はいらない。私は巻き込まれない……絶対に」
低く呼ばれた名前。
その意図を悟り、紅は彼が何かを言う前にそう紡いだ。
背中を向けている日番谷が、ただ一度頷いたのがわかる。
「―――い……市丸隊長…」
「退がっとき、イヅル。まだ死ぬん厭やろ」
市丸の背後で黙していた吉良が、躊躇いがちに彼に声をかける。
間髪おかず、市丸は彼にそう返す。
「…バカ言うな。足りねえよ、退くだけじゃ。てめえは消えろ、吉良。目が届かなくなってもまだ遠くへな」
日番谷の声が二人に届く。
片手で携えていた刀の柄に、もう片方も重ねた。
「四方三里に居るうちは…巻き込んで殺さねえ自信は無え」
言い終わるが早いか、日番谷が床を蹴って高く飛び上がる。
「霜天に坐せ!!『氷輪丸』!!!」
紅が静かに何かを呟くと同時に、日番谷の斬魄刀が解放された。
日番谷の斬魄刀、氷輪丸の創り出す夥しい量の水圧が周囲を襲う。
避け切れなかった吉良が、それに巻き込まれた。
水圧は襲う者を選ばず、雛森の傍に佇む紅の元へも届く。
だが、紅はその場から一歩も動こうとしなかった。
「二重解放、『始』」
紅が静かにそう紡ぐ。
二人を襲うかと思われた水圧は、見えない壁に阻まれるかのように、紅から約2丈の距離で弾けた。
何度襲い掛かろうとも、結果は変わらない。
水圧から視線を外し、紅は市丸の片腕を捕らえた日番谷を見る。
次第に矛先を市丸一人に固定し始めた水圧。
「『終』」
ただ一言そう呟く。
紅の視界が揺れ―――彼女はその場に伏した。
「…ええの?避けて」
長く伸びた神鎗を刀で受け流した日番谷に、市丸の冷たい言葉がかかる。
「あぁ、零番隊長さんの方が危ないなぁ」
「!?」
その言葉に、身体を反転させて神槍の伸びていく方向を見やる。
日番谷の視界に映ったのは、崩れ行く紅の姿だった。
「――――っ…紅っ!!!」
彼女の胸を射抜くように伸び行くそれに、日番谷は有りっ丈の声を上げた。
―――間に合わない。
そんな考えが彼の頭を過ぎる。
全身の血液が凍りついたように……冷たいそれが、日番谷の背を伝う。
「大事には至らないそうです。霊圧に多少の乱れが見られますが、恐らく疲労だと仰っていました」
静かに横たわる紅の傍に佇む日番谷に、四番隊員が声をかける。
「目が覚めれば問題はないと。では、私はこれで」
「あぁ、ありがとう」
去っていく四番隊員を背中で送ると、日番谷はそっと紅の傍らに近づく。
規則的な呼吸を繰り返す紅に、彼は安堵にも似た溜め息を漏らす。
かかる髪の毛を指で払ってその頬に手を当てる。
「紅…」
彼女の名を紡いでも、閉ざされた瞼はそのまま。
覚醒を願うように、日番谷は彼女の手を握り締めた。
「――――っ…紅っ!!!」
搾り出すような日番谷の声。
しかし、止まる事を知らぬ神鎗はその使命を全うするように真っ直ぐに自身を伸ばす。
その先に居る、紅と雛森に向かって。
ギィンッと、音が響いた。
「松本…霧渡…!」
刀を防いだのは乱菊。
そして霧渡は己の刀を構えつつも紅を抱き上げ、神鎗の矛先から逃していた。
己の隊長である日番谷に声を発する乱菊の傍らで、霧渡は紅を見下ろす。
「隊長…」
紡いだ声が彼女の意識を覚醒させるには至らない。
一陣の風を残して去った市丸。
彼の気配が完全に消え去るや否や、日番谷は紅の元へと駆け寄る。
「紅!!」
浅い呼吸を繰り返す紅に、日番谷が焦りの表情を見せた。
「紅!紅っ!!」
「日番谷隊長、落ち着いてください。隊長を四番隊へ」
ここまで冷静を欠いた彼は初めてだな、と思いながらも霧渡はそう進言する。
彼の落ち着き払った言葉に日番谷は思い出したように頷く。
「あ、あぁ…そうだな」
彼は漸く気づいたように霧渡から紅の身体を受け取り、その腕にしっかりと抱いた。
それは自分の仕事だろうと思うが、霧渡は一つ溜め息を零すだけに止めて雛森を抱き上げる。
音もなく駆け出した日番谷の背中を追うようにして、彼らも足を進めた。
「……――…」
「紅?」
紅の唇が何かを紡いだ気がして、日番谷が静かに声をかける。
だが、返ってきたのはそれに対しての答えではなかった。
「…瑣迅(さじん)……」
小さな声は、それでも日番谷の耳に届く。
右手で彼女の手を握り締めたまま、日番谷は空いた手を彼女の頬に添えた。
「紅…」
閉ざされたままだった瞼が揺れる。
覚醒は近い。
「何で…お前の口から『紡がれぬ名を持つ者』が出て来るんだよ…」
絡みあう無数の未来は、確実に近づいて来ていた。
05.07.11
Rewrite 05.11.20