Raison d'etre sc.017
執務室に戻った紅は、現在の状況を把握するべく霧渡の用意した書類に目を通す。
「失礼します。…隊長」
仕事の邪魔をしてしまう事に対する罪悪感を受けているのだろうか。
霧渡は控えめに声を掛ける。
そんな彼の声を受け、紅は顔を上げた。
「どうしたの?」
「日番谷隊長が来られていますが…」
「……ここに通して」
「はい」
霧渡は短く返事を返すと、そのまま扉の向こうに戻った。
紅は持っていた書類に署名を記して机の端に積み上げ、長い溜め息をつく。
扉の方に視線をやれば、丁度見慣れた銀髪が目に入ってきた。
「いらっしゃい。霧渡、しばらく誰も通さないで」
「わかりました」
霧渡が下がっていったのを見て、日番谷は扉を完全に閉める。
彼は薦めた椅子に腰を降ろし、紅の方を見た。
「…そんな眼で見ないで欲しいんだけど」
「隊首会だ」
そう一言。
彼はそれだけを紡いで腕を組む。
どこか不機嫌と言うか…とにかく不満げな様子だった。
「………それって…私の所為?」
「違うな。原因は市丸だ」
「そう、ならいいんだけど…。まさか、それだけを言いに来たわけじゃないわよね?」
そう問いかければ、日番谷は口を閉ざす。
そして、一度頷いた後、何かを決めたように顔を上げた。
「雪耶、お前…何か見たか?」
「………質問の意図がわからないわ。どう言う事?」
まるで自身の答えの中から何かを求めているような…そんな印象を受けた。
紅はその真意を知ろうと質問を返す。
「…市丸が何をした?見てたんだろ?」
日番谷が聞いていたのは、白道門での出来事。
紅の行動を疑っていると言うよりは、市丸の行動を知りたいようだった。
どこか安堵してしまう自身に苦笑を浮かべ、紅は黙っている必要はないだろうと口を開く。
「旅禍と対峙した」
「それだけじゃねぇよな?」
「…斬魄刀は解放したわ。旅禍の方は…おそらく死んではいない」
寧ろ、どこか遊んでいるように感じた。
それを素直に話せば、日番谷は「そうか」と何かを思案するように口を閉ざす。
彼の思考を邪魔せぬよう、出来るだけ控えめに紅は言った。
「気になることが…あるのね」
疑問ではなく確認。
日番谷はその翡翠の目に紅を映し、そして口角の片方を持ち上げた。
「…お前もだろ?」
「まぁね」
紅は曖昧な返事を返す。
そしてふと脳裏をあの時の様子が過ぎった。
考えるべき事は他にあるとわかっていても、同時に思い出してしまった彼の姿。
ほんの一瞬の出来事であったが、それは向かい合う彼には伝わってしまった。
先程までは市丸の事で頭が一杯だった日番谷だが、そんな物は垣間見えた彼女の表情に吹き飛ばされる。
必要性の感じられない質問であったとしても、聞かずには居られなかった。
「………どうだったんだ?」
「え?」
日番谷が表情の変化を読み取った事に気づけなかった紅はその質問の意味を見失う。
一つだけ溜め息を落とし、彼はその続きを紡いだ。
「旅禍。アイツだったのか?」
沈黙は肯定だった。
「…会えたのか?」
日番谷が重ねた質問に対し、紅は首を横に振った。
その様子に、彼は顔をしかめる。
「一方的に見た…だけ」
「会わなかったのか」
「…うん。でも…私が居た事、気づいたかもしれない」
思わず飛び出したあの時に。
目は合わなかったものの、声は届いていたと思うから。
出来るならば届いていなければと思う反面、己の声を覚えていて欲しいと思う。
矛盾する想いを抱えながら机の上に肘をつき、絡めた自身の手に額を乗せるようにして日番谷から表情を隠す。
「これ以上は、会わない。私は…ここに居たいから」
震えそうになる唇を叱咤して、紅は最後まで紡ぎきる。
それと同時に、日番谷は彼女の手を取った。
驚いて顔を上げる紅の眼に翡翠が映る。
「じゃあ、何で震えてるんだよ…」
身長差にも関わらず一回り大きい日番谷の手が、紅のそれを包み込む。
自分でも、気づいていなかった。
いや…気づきたくなくて強がっていたのかもしれない。
ゆっくりと、紅が口を開いた。
「会えなかったの……本当は…っ」
涙が、頬を伝う。
今、立っている足元が崩れるような気がして。
たった一つだけの居場所を失ってしまうように思えて…会えなかった。
一方的な再会だけで終わらせるはずだったのに。
紅は日番谷の死覇装をぎゅっと握り締める。
「姿を見ただけで…っ…それだけで今にも駆け出しそうだったっ!
こんな状態で会ったら……私、もうここには戻れないっ!」
「……………」
「でも…ここにいたいの…!冬獅郎…っ」
涙を流しながら、それでもここに居たいのだと言う紅に、日番谷はその口を閉ざした。
紅が落ち着いたのはそれから暫くしての事。
混乱していたのだろうと、日番谷も問い詰めたりはしなかった。
何より、彼自身が彼女に掛ける言葉を失っていた…と言うのもあるだろう。
「…隊首会だ。出れるな?」
日番谷の言葉に紅は頷く。
「もう、大丈夫」
「覚悟…決めろよ」
敵対するか、或いは…。
どちらにせよ覚悟は必要だった。
「…わかってる」
再び頷いた紅を見て、日番谷が立ち上がった。
そして、紅に手を差し出す。
紅はふっと微笑むと、その手を取って椅子から立つ。
「行くぞ、紅」
「………うんっ!」
初めて呼ばれた名前から少しだけ勇気をもらえたと言う事は、彼女だけの秘密。
Rewrite 05.11.07