Raison d'etre  sc.013

執務室にヒラリと舞い込んだ漆黒のそれに、紅は不意に仕事の手を休めて視線を持ち上げた。
スイッと指を差し出せば、その上に音もなく降り立つ地獄蝶。

「あれ?珍しいですね、地獄蝶が…」
「…そうね」

『零番隊長に申し上げます』

脳に直接届く音に、二人は口を噤んだ。
彼女の指先で羽を休めるように上下に動かし、声は続く。

『第一級重禍罪、朽木ルキアを極囚とし、これより二十五日の後に真央刑庭に於いて極刑に処す事が決定いたしました。
今後の零番隊は ―――』

なおも続く地獄蝶からの声だが、紅の頭には残っていなかった。
やがてふわりと飛び立っていった黒い蝶を見送り、ガタッと派手な音を立て、紅は立ち上がる。

「六番隊ですね」
「ええ。後を頼んだわ」

振り向く事なく背中で答え、部屋を出て行く。
彼女の背を見送ろうと廊下へ出た霧渡だったが、すでにその場には彼女の名残すら残っていなかった。
出来る事なら忘れて居たかった夢が、現実の物となって紅を蝕む。














「っと。悪ぃ…て、紅…隊長?」

勢いよく角を曲がってきた紅は誰かと衝突してしまったらしい。
幸い向こうが腕を掴んでくれたおかげで床に転がると言う無様な姿を曝け出さずにすんだわけだが。
顔を上げれば赤い髪が目に入った。

「恋次…」
「何でこんなトコに………聞いたのか?」

話している途中で気づいたのか、彼は表情を落として問う。
紅は静かに頷いた。
彼女の反応を見て、恋次は何も言わずにクルリと踵を返す。
そして『六』と記された扉の錠を解いた。

「…頼む」

彼女が本心から親友と呼んでいる紅に、その役目を託す。
自分には出来ない事でも、彼女ならばどうにかしてくれるような気がした。

「…ありがとう」

一言礼を紡ぐと、紅は扉の向こうへと消えて行った。













ゆっくりと、一歩ずつ重い足を進める。
牢に阻まれて最後まで距離を縮めることは出来なかった。
この、近くて遠い距離が…苦しい。

「…ごめん」

小さいけれども、よく通った声を紡ぐ。
必要以上に響くこの場所を恨むように、ただ一度眉を寄せる。
目の前の彼女の肩が揺れ、黒髪を僅かに揺らしながら彼女は振り向いた。

「何故、紅が謝ることがある」

振り向いてそう言ったルキアの表情が、大切な友人の表情が…あまりにも切なくて。
紅は縋るように柵を握り締め、その場に膝を付いた。

「ずっと、刑が軽くなるように中央四十六室に掛け合ってきたの。だけど…」
「紅…」
「本当は、すぐにでも出してあげたい。ずっと、笑っていて欲しいのに…私は…!」

絞り出す声は魂の叫びにも似ていて…ルキアはふと目を閉じる。
そんな紅の姿は、見ていられないほど痛々しかった。
しかし、彼女の叫びが己の為なのだと思えば、くすぐったいような…それで居て切ない感情に包まれる。
ゆっくりと歩を進めても、彼女は依然とその目に床を映すだけだった。

「何のために、強くなったのかわからない…。ごめ…」
「紅」

間近で名前を呼ばれて、紅は顔を上げる。
薄い境界を挟んですぐ前に、ルキアの姿があった。

「……ありがとう」
「…ルキア?」
「ありがとう、紅」

ルキアが、笑って言った。
見上げる紅の表情すらも自分のためなのだと思えば、素直にその言葉を紡ぐことが出来る。
もとより…彼女には感謝の言葉しか出てこない。

「もう十分だ。紅が無理することはない。こうなるのは当然の事だったのだ」

柵の隙間から手を伸ばし、紅の手に重ね合わせる。

「ありがとう、私は自由だった。迷いも、何もない」

朽木と言う名に縛られず、死神と言う生業に囚われず。
紅が語っていた男に出会って、彼の心に触れて。
自分の小ささを知り、彼の大きさに救われた。

「お前とまたこの場で会えた事、私は素直に喜べる。その報いと言うならば、処刑も甘んじて受けよう」
「…ルキア…」

彼を救いたくて白哉に従った。
それは事実だったが、紅に頼まれたから彼を救いたいと思ったわけではない。
自分自身が、一護と言う男の生を救いたかった。

「何も考えるな。私は、ただお前と同じく在るべき場所に帰ってきたのだ。そして、己の罪を償うのだ」

ルキアは口元に笑みを刻む。
彼女が思いつめていないと言えば嘘になるのだろう。
紅は彼女の笑みに、ふと夢の中のそれを重ね合わせた。

「…絶対、助ける」
「紅…?」

夢を現実にするわけにはいかない。
所詮は夢だとわかっていても、心を掻き立てる不安は拭えなかった。

「私に出来る全てを懸けて…助ける」

紅が、覚悟を決めたように真っ直ぐにルキアを見た。
そして、ふと表情を緩める。

「…もう一回だけ、無理させて?」

少しだけ首を傾けて、まるで諭すような声色でそう言った。
否定の言葉を吐き出そうとしたルキアの口が一度だけ閉ざされ、彼女は苦笑を浮かべる。

「………駄目だ、と言った所で、お前は聞かんだろう?」

ルキアの言葉に紅はただ笑みを深める。
それが、彼女の答えだった。
ルキアは一旦俯けた顔を持ち上げ、正面から紅を見据える。

「ならば、思うようにしてくれ。ただし、これだけは覚えておいてくれ。
私はどんな結果になろうとも、決して紅を恨んだりはしない」
「…わかったわ」

しばらく見詰め合って…その後、糸が切れたように二人で笑った。













「紅、一護の事を聞いておくか?」
「…別にいい」

背中から伝わるルキアの声に、紅は首を振って答えた。
返事もわかっていたらしく、彼女は「そうか」と短く返事をする。

「一護も大切だけど…振り返ってばかりじゃ前に進めないから」

そうでしょう?と微笑む紅。
今考えるべきこと、すべき事。
それを差し置いてまで彼の事を考えるのは間違っているから。
彼女に釣られるように、ルキアも微笑んだ。

「誰か一人に絞るなんて出来ないから…だから、彼の事は聞かない」
「紅らしいな」
「でしょ?」

たった一人に絞る事が出来れば。
他の全てを切り捨て、その隣に帰ることが出来れば。
どんなに楽なのだろうかと思う。

でも、そんな楽なら…私はしたくないから。
欲張りだと言われようとも、幼稚な考えだと言われようとも。
己の大切なもの、その全てを護りたい。

だから ――― あなたの事はもう少しだけ忘れさせてください。

Rewrite 05.11.05