Raison d'etre  sc.006

「雪耶隊長 ―――――!?!?」

紅が隊長に就任してから二日目の朝。
瀞霊廷には今までとは違って副官である彼の声が響く事となった。
きっと、数日後にはこれが日常へと成り代わるのだろう。















「失礼します」

きちんとした挨拶と共に執務室へ入ってきたその人物に、紅は手を止めて微笑んだ。

「今回零番隊副隊長へと配属されました霧渡十六夜です。えっと…前任は十一番隊第三席副官補佐」

他に何か言うべき事はあるか?と自問自答するように口を閉ざす霧渡。
そんな彼に、紅は軽く頭を下げて口を開いた。

「隊長の雪耶紅よ。前任は十番隊第四席。…ごめんね?自分より下の階級の者に、なんて…」

申し訳なさそうに苦笑を浮かべる彼女に霧渡は慌てて首を振った。

「隊長が謝る必要ないですって!それに俺は…っ」

そこまで言って、彼は突如口を噤む。
――― ずっとあなたに憧れていたんだから。
紡がれなかった言葉が彼の内部へと静められる。

本当は、知っていた。
名前も…前任が十番隊であることも。
模擬試合の話をしていた時に隊の奴から聞いた話。
四席の女が副隊長を負かして、尚且つ隊長と接戦したと言うものだった。
事実はどうであれ、興味を抱いたのはそれがきっかけ。
それからその女が雪耶と言う名であることを知った頃…偶然目にしたんだ。
風の様な迅さをもって、一瞬のうちに虚を昇華した彼女。
虚に食い殺された幼い少女の亡骸に涙を流す姿を見て、思った。
彼女は強い。
そして何より赤の他人の為に涙を流す事の出来るその心が強いと思った。

――― 自分よりも年下で任期も浅いはずの彼女に、憧れに近い想いを抱いた。

『霧渡…運がいいじゃねぇか。零番隊長は雪耶だぜ』

更木隊長から彼女の名前が出た瞬間、自分の答えなど決まっていた。






「霧渡…?」

不意に、思考の波から引き戻される。
何やら狼狽した様子で答える彼に、紅は疲れてる?と笑った。

「いや、そんな事は…ないです」
「そう?あ、他の隊員なんだけど…明日にはきちんと揃うと思うわ。今日の顔合わせは私だけで勘弁してね」

そう言って書類をトントンと整える紅。
今まで気づいていなかったが、結構な広さの執務室には二人以外誰も居なかった。

「わかりました。で、俺って何すればいいんです?」
「んー?今日は…元の隊からの引き継ぎ書類の整理ね。一日作業よ」

はい、と渡された書類には自分の記入すべき所が全て空欄になっていた。
同様の書類が…数えたくないほど。
反射的にそれを受け取った霧渡は口元を引きつらせる。

「じゃ、今日からよろしくね。霧渡」
「…よろしくお願いします」

















その翌日。
隊の者全員との顔合わせが済んだ頃には、すでに午前も終わろうとしていた。

「はい、お疲れ様」

何やらお疲れ気味の霧渡を見て紅はそう言った。
そして自分が飲んでいた湯飲みの隣に伏せてあったそれを正規の向きへと戻し、そこに湯気の立つお茶を注ぐ。
それを彼に差し出した。

「ありがとうございます」
「どういたしまして。一息ついたらこの処理済の分を届けてくれる?今日は特に忙しい仕事もないし」
「了解しましたー………って。何ですか、この量は」

お茶を啜った後それに視線を向けずに受け取った霧渡は、その重量感に思わずそれを取り落としそうになった。
慌てて湯飲みを脇においてもう片方の手をそれに添え、彼は驚きの表情を浮かべる。
そんな彼の視線を物ともせず、紅はすでに次の作業に取り掛かっていた。

「暇だったからね。その辺も整理したから、不便だったら適当に直してくれていいよ」

そう言えば、と霧渡は執務室内を見回した。
昨日は移動したばかりで混雑していた執務室が、小奇麗に整理されているように思う。
元々細かい事を気にしない彼の性格ゆえ、どこがどうなっているとはっきりわからなかったが。

「よし。はい、これもよろしく」

彼が両手で抱えていた書類の一番上に更に2センチほどそれを追加された。
そして、紅は呆気に取られる霧渡の肩をポンと叩く。
彼女の顔にはにっこりと形容できる笑みが浮かべられていた。

「じゃ、後はよろしく」

語尾に音符でもついているような明るく楽しげな声。

「………………………は?」

たっぷりと沈黙を持ってそう答えた頃には、窓から見える紅の背中は小さくなっていた。

















「隊長見ませんでしたか!?」

バンッと戸を開いて霧渡が十番隊の執務室へと現れた。
中の人間の視線を一身に受けた彼は、慌てた様子で自らの名前と副隊長であることを名乗る。
それを聞いた者たちは苦笑を浮かべた。
この場にいるのは皆、この一年で彼女の行動には慣らされた者ばかりだ。
そんな中、奥に設置された机に向かっていた日番谷は一際大きな溜め息を零した。

「…もう逃げ出したのか?まだ二日だろ…」
「すっかり逃げられました。どこに居るんだか検討も…」
「……多分屋根だろ。煙と何やらは高い所が好きだからな」

そう言って日番谷は椅子から立ち上がり、窓の外に視線を向ける。
そこからの風景に視線を向けながら言った。

「この辺で高い所って言えば…あそこだな」

日番谷の視線は一箇所に固定された。









「霧渡が探してるかな…。さっき怒鳴り声が聞こえてたし」

ほんのり温い瓦の上に、紅はごろんとその身体を横たえていた。
自分の姿を見失って、今頃必死になっているだろう副官を思い浮かべてクスクスと笑う。
そんな彼女の顔に影が落ちた。

「空が見えないんですけど」
「もう逃げ出したのか?呆れた奴だな…」
「だって…執務室に缶詰なんて考えられませんよ」

こんなにいい天気なのに。と紅は言う。
そんなのが関係あるか、と思いながらもそれを口には出さず、日番谷は彼女の隣に座った。
寝転がったままの視線が彼を見つめる。

「サボりですか?日番谷隊長」
「もう隊長じゃねぇな」
「あ、そう言えば。んー…じゃあ、何て呼べばいい?」

よっと身体を起こした紅は日番谷に問いかける。
彼は少しの間悩んだ後、徐に「約束」と呟いた。

「約束…?……………あぁ、あれね。わかった」

そう答えると紅は屋根の下の廊下を覗き込める位置まで移動した。
彼女の行動に疑問を感じたのか、日番谷もその隣へと移動する。
程なくして、廊下の向こうから曲がってきたのは霧渡だった。

「うわー…とってもお怒りのご様子で」
「そりゃそうだろうな。瀞霊廷がどんだけ広いと思ってんだよ」

屋根の上の二人の存在には気づかなかったのか、彼は足音荒くその廊下を歩き去ってしまった。
床が傷むのでは…?と思った紅だったが、その原因である自分がそんな事を言えるはずもない。

「さて…と。じゃあ、そろそろ戻るわ。あんまり探し回らせるのも可哀相だし」
「おー。ま、頑張れよ」

未だ立ち上がろうとしない彼は彼女に向かって背中越しに手を上げた。
そんな彼を見ながら、紅は口角を持ち上げる。

「そっちもね。……また、こうやって一緒にサボれたらいいね…冬獅郎」
「!?」

日番谷が振り向いた時には、すでに彼女の気配は消え去っていた。
彼は口元を覆うようにして顔を俯かせる。

「いい逃げしてくなっつーの…」

そう呟いた彼の頬が赤かった事を知るのは、空を流れた雲の塊だけだった。






『名前で呼ぶわけにはいきません。隊長は…隊長ですから』
『変なところで細かい奴だな、お前』
『そうですか?まぁ…もし、同じ位置に立てたら』
『?』
『その時は、名前で呼ばせてください』

少しだけ昔の、そんな些細な約束だった。
まさか、覚えているとは思わなかったけれど…。
覚えていてくれた事、凄く嬉しかったよ。

Rewrite 05.11.01