Raison d'etre sc.003
「雪耶 ――――― っ!!!」
瀞霊廷内にすでに日常と化している怒鳴り声が響いた。
むろん、それは感心するような速さで屋根を駆けている紅にも届いている。
クスクスと喉で笑いながら、それでも彼女は足を止めようとはしなかった。
「あ、京楽隊長」
「やぁ、紅ちゃん」
隊長衣の上に女物の着物を羽織った京楽は紅に笑顔を返した。
一隊長としては彼女を引き止めて、隊の方へ戻すべきなのだろうが…それをしないのが彼だ。
「今日はどこに行くんだい?」
「そうですね…五番隊にでもお邪魔することにします」
そう言って紅は微笑み、では、と言って再び屋根を蹴って行った。
ほんの数ヶ月前まではただの人間だったはずの彼女だが…。
その身体能力には目を見張るものがあった。
すでに小さくなっている彼女の背中を見送り、彼は苦笑を浮かべる。
「本当に相変わらずだね」
「ええ、本当に。隊長もそう変わらないと思いますけれど?」
「……………相変わらず素晴らしい勘の良さだね、七緒ちゃん…。一時間で見つかるとは思わなかったよ…」
トンッと軽い足取りで、紅は五番隊の前へと降り立った。
「お邪魔します」
「はーいって…紅ちゃん?日番谷くんが探してたけど…また逃げてきたの?」
「うん。だから匿ってね」
丁度部屋の中で荷物を運んでいた雛森が、紅に気づき声を掛ける。
紅の答えに苦笑するも、彼女は頷いた。
「いつもの部屋で待っててくれる?お茶を用意してから行くから」
「ありがとう、雛森副隊長」
「あ、また!今までみたいに呼んでくれていいって言ってるのに」
そう言って頬を膨らませる雛森に紅は首を振った。
特に返事を返すでもなく、彼女は指定された部屋へと入っていく。
「今日は藍染隊長は?」
「お出掛け中。もうすぐ帰って来る頃だと思うけど」
机を挟んで座り込んだ二人。
呑気にお茶など啜りながら、他愛ない雑談の時を楽しんでいた。
「それにしても…紅ちゃん逃げてきていいの?仕事は?」
「あぁ、それなら大丈夫。ちゃんと自分の分だけは終わらせてきたから」
サボる為に短時間で仕事を終わらせてくる紅。
それもかなり大変な作業だとは思うのだが…彼女からすればサボると言う事の方が重要度は高いらしい。
「日番谷くんも苦労するなぁ…」
雛森の言葉に紅は「はは」と乾いた笑いを返すだけだった。
「仕事が嫌いなわけじゃないのに…何でサボるの?」
「んー…面白いから、かな」
ずず…とお茶を啜り、紅は答える。
そんな彼女の言葉を聞き、雛森は「面白い?」と首を傾げた。
「うん。だって…」
紅が楽しそうに訳を話そうと口を開いた時…。
ドカドカと不機嫌さを表すような足音が五番隊執務室に近づいてきた。
それにいち早く気づいた紅は、慌てるでもなしに入り口からの死角に隠れる。
彼女が隠れるとほぼ同時に、詰所の扉が勢いよく開かれた。
「雛森、雪耶知らねぇか?」
「えーっと…今日は見てないよ?」
早くも視線を泳がせている雛森に、紅は軽く溜め息をついた。
もちろんそれに気づかないような日番谷ではない。
「どこだ?」
「う~~~~~…」
日番谷が粘る雛森に詰め寄っている間に、紅は気配を消して少しずつ扉に近づいた。
彼女に背を向けている日番谷はまだ気づきそうもない。
このまま逃げ切るかと思われたが…。
「どこ見て……!?雪耶!!!」
雛森は紅の方を向いていたために、自然と視線で追っていたようだ。
声を発する日番谷だが、ほんの少しばかり発見が遅かった。
「失礼しまーす!!」
紅はすでに前の屋根へと身体を運び、笑って彼に手を振った。
屋根に足がつくと同時に、驚くような速さで走り去る。
「ばっ!!逃げんな!!!」
日番谷は紅が走り出したのを見るや否や、同じように屋根へと飛び移って行った。
あとに残された雛森は一人その場に佇む。
そんな彼女の背後に、今しがた用事から戻ってきた藍染が姿を現した。
「おや、雛森くん。どうしたんだい?」
「藍染隊長…。お帰りなさい」
「また雪耶くんが来ていたのかな?あの子はいつまでも変わらないね」
少し困った顔をしている雛森を見て、藍染はすぐにその原因に思い当たったらしい。
すでに恒例になっている二人の追いかけっこを思い浮かべると、苦笑を漏らさずにはいられなかった。
「雪耶!!待ちやがれっ!!」
「日番谷隊長…。逃げてるのに待てと言われて待つ人なんていませんよ?」
「普通に答えるなっ!!」
「隊長隊長。いくら子供でも怒鳴りすぎると血圧上がりますよ?」
「てめぇ…馬鹿にしてんのか…」
いくらか低くなった日番谷の声に、紅は僅かに頬を引きつらせた。
だが、足を止めるわけもなく屋根の上を駆ける。
ほぼ毎日こうして追いかけっこを繰り返しているおかげか、体力は嫌と言うほどついた。
それに伴って足も速くなっている。
驚くような速度で屋根を駆けていく彼らは、走られている側からは迷惑この上ない二人だった。
「それにしても…何で追いかけてくるんです?今日の仕事は終わらせましたけど…」
「仕事はいつでも増える一方なんだよ!これから現世の任務だ」
日番谷の言葉に紅はピタリと足を止めた。
同時に後ろを走っていた彼も速度を落す。
「現世に私を?」
「ああ。俺が行くから…お前も来い」
「それは副隊長の役目だと思います」
「………あいつでは無理だ」
「へぇ…強いんですね」
躊躇いながらもはっきりと紡がれた言葉に、紅は楽しげな声を上げた。
純粋に、強い物に対する好奇心に近しいそれ。
「にしても、やはり第四席がいくのは…」
「俺に勝るとも劣らない奴のセリフじゃねぇな」
間髪容れずにそう返す辺り、少ないながらも前回の試合を根に持っているように思えた。
試合と言うのは半月ほど前に行われた模擬試合の事だ。
そこで紅は他の隊員を制し、副隊長である乱菊すらもその実力を持って打ち破った。
隊の中での試合だった為、決勝は言うまでもなく日番谷。
その試合の中で紅は彼に引けを取らない程に見事な動きを見せたのだ。
「とにかく!私の仕事は終わりま」
「隊長命令だ。付いて来い」
「…………………………職権乱用!」
「何とでも言いやがれ。さっさと終わらせたきゃ急げよ」
早く準備して来いとばかりにヒラヒラと手を振る日番谷を睨みながらも彼女は屋根を降りた。
渡り廊下の中腹辺りに軽い足取りで降り立ち、何事もなかったかのようにそこを歩き出す。
「大体隊長は勝手過ぎると思いますね」
「あ?」
「私の仕事が終わっていなければどうするつもりだったんですか?」
残業ものですよ、これ。と不満げに声を上げる紅。
そんな彼女の視線を物ともせずに彼はその隣を歩んだ。
「終わってるからお前を連れてくに決まってるだろうが」
「…終わらせなかったらよかった…」
「おい、それでも連れてく事に変わりはねぇぞ」
ぶつぶつと文句を言う紅を一蹴する彼。
もっとも、本心から彼女が拒否するならば日番谷とて無理強いは出来なかっただろう。
現に、この任務は自分一人で出来ない事もない。
「ま、頷いちゃったものは仕方ないですね…」
はぁ…と態とらしく溜め息を吐き出すと、紅は漸く戻ってきた執務室へと足を踏み入れた。
「私の斬魄刀どこだっけ?」
「あ、紅さんこっちに移動させてありますよ」
仕事から顔を上げて答えてくれた部下にありがとうと礼を述べ、指された方へと進む。
そして自分のそれらを目にした紅は口角を持ち上げた。
「今回もよろしくね」
そう言って彼女は三本の斬魄刀を腰に挿した。
Rewrite 05.10.30