Raison d'etre sc.002
「何…これ…」
目の前の状況を瞬時に理解するには、脳内は少しばかり貧困だったようだ。
いや、自分だけではなく、一般にそうだろうと思いなおす。
そんな事を考えているあたり変に冷静だ。
夕方と夜とが混ざり合う時間帯。
冬もすでに終わり、春に片足を乗せている季節ともあってまだ少しは明るい。
家からコンビニまでの道のりを半分ほど進んだところに、紅はいた。
彼女と僅か数メートルの距離を開けて佇んでいるのは異形のもの。
顔に仮面のようなものをつけ、その目は愉快そうな笑みを刻んでいる。
「わけわかんない…」
紅は呟いた。
先程から無視出来ない程に呼吸が苦しい。
よく見れば、自分の胸元から太い鎖が伸びていた。
辿った先にあったのは…いや、いたのは…。
「わ、たし…?」
右肩から左の腰にかけて大きな傷があり、そのままぐたりと倒れこんでいる自分。
未だ鮮血の溢れ出すそれを見れば、医者でなくともその生命が危ういとわかる。
「はは…死ぬ、かな。何か…わ、けの…わからない…ものまで、見えてるし…」
「お主、儂が見えておるのか?」
「…おまけに、喋る…んだ」
「声も聞こえておるのか。美味そうな魂じゃ」
美味そう。
それは確かにそう言った。
回らない頭で考えても、自分が食われる立場にあると言う事くらいは簡単に理解できる。
だが、逃げようとしても指一本動かすことすら億劫だった。
このまま目を閉じてしまいたい。
そんな思いが紅の思考の中を過ぎる。
「まずは因果の鎖を…」
楽しげな声でそう言ったそれの爪が、目に見えて急速に成長する。
鋭利に尖ったそれが、止める間もなく紅と…倒れている彼女を繋いでいた鎖を切り裂いた。
独特の金属音が、まるで世界の終わりを告げる鐘の様だと、紅は思う。
むき出しの歯が並んだ口が大きく開かれようと、その鋭い爪が迫ってこようと。
動けない身体で出来る事などなかった。
ただ、これが夢だったらいいのにと思う。
――― また、悲しい想いをさせるのかな…。
迫り来る化け物を前に、紅は目を閉じた。
――― ごめん…一護…。
いつまで経ってもやってこない衝撃に、紅は薄っすらとその目を開いた。
視界を染めるのは漆黒。
「ヒィ…っ!死神…!!」
死神、と。
そう言われて連想するのは…漆黒の衣に身丈ほどの大きな鎌を携えた姿。
確かにそれと一致する部分は合った。
しかし、どこか違う物のようにも思える。
その人物は漆黒の着物に身を包み、本来腰に挿すべき刀を背中に負っていた。
銀色の髪は短く、身長も紅より低くまだ少年のような出で立ち。
彼は一瞬のうちに刀を抜刀すると、化け物に向き直った。
その黒が遠のいたかと思えば、次の瞬間には化け物の断末魔が耳を劈く。
それが跡形もなく消え去って尚、紅はその場から動く事が出来なかった。
「…なるほどな…。道理で虚が周辺に集ってるわけだ…」
彼は紅と視線を合わせるなりそう呟いた。
そして何かを探るように周囲に視線を彷徨わせる。
「ほ、ろう…?」
紅がそう呟けば、彼の視線は再び紅の元へと戻ってきた。
翡翠色の眼が彼女の姿を映す。
「さっきの仮面をつけた…化け物だな。アレが虚だ」
「何でそれがこんな所に…?」
「…お前みたいな霊的濃度の高い魂を求めてるんだ」
キンッと刀を鞘に戻しながら彼はそう言った。
霊的濃度…そう言われても紅には今一ピンと来ない。
しかし、それが霊力の高さを物語っているとしたら…。
背筋を冷たいものが走った。
「この近く!!」
「は?」
「私と同じくらいに幽霊が見える人がいるの!!」
「お前と同じくらい…?」
その言葉に眉を寄せる彼に物ともせず、紅はその着衣に縋った。
「お願い彼を助けて…!!」
「落ち着け!もうこの辺りの虚は全て他の死神が片付けてる!!」
己の声も届いていないのではないかと言うほどに必死の様子を見せる紅に、彼は声を荒らげた。
それを聞いて彼女は目を開き、そして半ば崩れ落ちるように地面に座り込む。
「…よかった…」
安堵に表情を緩める彼女を見下ろしながら、彼は再び口を開いた。
「お前、名前は?」
「…雪耶。下の名前は…紅」
「雪耶だな。俺は日番谷冬獅郎だ」
「……あなたは…何者?」
探るような視線を受け、彼…日番谷は言った。
「俺は…死神だ」
「お前、これからどうする?」
一通りの説明を終えると、日番谷は紅にそう問いかけた。
彼女は未だ転がったままの自分の身体を見つめ、言う。
「…死んだんだよね?」
「………あぁ。因果の鎖が切れてる上に、身体がこれだけ重体なら…」
「そっか…」
何となくわかっていた答えだった。
彼の口から直接聞いても、すんなりと受け入れられる。
「安心してる」
「安心?」
「襲われたのが…私だったことに」
血に塗れて横たわる自分を見下ろすのは、あまり嬉しい物ではないけれど。
それでも、そんな彼を見下ろすよりも数倍マシだ。
「…馬鹿な奴だな、お前」
呆れた様な声だけれど、決して嘲るようなものではなかった。
紅は彼の言葉に苦笑を返す。
「お前が望むなら…死神にならないか?」
「私が?」
「それだけ霊力が高けりゃ問題ねぇ。俺がお前を推薦してやる」
迷いなどなさそうな彼の言葉に紅は静かに耳を傾ける。
昨日までは崩れる事のない平穏だと思っていた。
それなのに、今ではこんな究極とも言えるような選択を強いられる事になろうとは。
「虚は霊力の高い奴を食い荒らす。………この意味がわかるだろ」
真剣な眼で日番谷はそう言った。
彼の言葉が示す意味など…考える必要もない。
「強くなれば…護れる?」
「努力次第だな」
自分の死の後にこんな生活が待っているとは思わなかった。
内心でそう苦笑しながら、紅は彼に向かって手を伸ばす。
「護りたい人がいる。…強くして」
「上等だ」
その手を取る事に、迷いはなかった。
Rewrite 05.10.30