「何だ、お前は」
黒髪の優男が自分を見下ろす。
警戒しているらしい男を前に、紅はこれといった態度も見せずに無関心な目を向けた。
古いけれど、それなりに大きな屋敷に連れて来られ、無人の一室へと通された。
紅は、自分を置いてすぐに去っていく男の背中を呼び止めることはせず、一人部屋の中に残る。
とりあえず朝を待とう。
夜も更けた空を障子で遮り、紅はそう思った。
そう決めてしまうと、彼女は適当な壁に背を預けてゆっくりと目を閉じる。
眠ることはできなかったけれど、身体を休めることはできた。
翌朝、紅はまずは彼を探そうと部屋を後にする。
そこで、彼女は黒髪長髪の男と出くわした。
「何だ、と聞いている」
「あー…丁度良かった。長髪さん、お頭さんはどこ?」
あえて男の質問には答えず、逆にまったく違う質問を投げかける。
男の丹精な顔立ちに不満が浮かんだ。
「長髪さんじゃない、桂だ。それではお前と被るではないか」
確かに、紅と彼は同じくらいの長さの髪を持っている。
下ろしているか、高い位置で結い上げているかの違いはあるけれど。
それにしても―――
「カツラ?へぇ、その若さでヅラとは…。お気の毒に。―――で、お頭さんはどこ?」
「ヅラじゃない、桂だ!そもそも、「お頭さん」とは誰のことだ」
「ヅラもカツラも意味は同じだよ。お頭さんって言うのは……………あ」
「ヅラじゃない!桂だと言っている!――――どうした」
間の抜けた音を発した彼女に、ヅラ…桂がそう尋ねる。
律儀に反応を返してくれる辺りに人の良さを感じた。
「俺、お頭さんの名前を聞いてないし…自分も名乗ってない」
道中も無言の時間だったから、お互いの自己紹介などあるはずもなく。
ここに到着してからだって、一言も話さないうちに彼が去ってしまった。
今更だが、紅は彼が鬼兵隊の頭だと言うこと、そして彼は、紅が朱羅だと言うことしか知らない。
よく付いていってみようと思えたものだ。
頭を悩ませている紅を前に、桂は質問を戻した。
「結局、お前は何者だ?」
「紅」
「紅?女子のような名前だな」
「そうかな、結構気に入ってんだけど。何者かって言うと…お頭さんに勧誘されてきた」
そもそも、二人の間でお頭という人物が同じ人間にたどり着いているかどうかが怪しい。
まずはそれを一致させることが、会話を成り立たせる上で最も重要な課題だった。
「鬼兵隊のお頭さんなんだけど、知らない?」
「おい」
「そうそう、こんな声で…」
後ろから聞こえた声に、紅はハッと我に返る。
振り向かなくても感じる気配には覚えがある。
目の前の桂が、驚いたような表情を浮かべていることが疑問だった。
「お頭さん」
振り向きながら、おはようございます、と告げると、彼は小さく頷いた。
それから、紅と桂を交互に見やる。
「面白ぇ組み合わせだな」
そう言って僅かに口角を持ち上げてから、彼は付いて来い、と顎で廊下の奥を示す。
踵を返して歩き出す彼に続き、紅も足を動かした。
そしてふと、立ち竦んだままの桂を振り向く。
「交友を深めるのはまたの機会に」
じゃあ、と手を振り、彼を残して男の後を追っていった。
「ヅラー。どした、そんな所で固まって」
桂の後ろに続く廊下の向こうから、ひょいと顔を覗かせた同志。
銀髪の青年の声に、沈んだ…と言うよりは、心ここにあらずと言った様子で答える。
「ヅラじゃない、桂だ…」
「いつもの元気はどした。何か妙なもんでも食ったのか?」
「…いや…それを言うなら高杉だろう」
「何でそこで高杉?意味わかんねェんだけど」
男の後を付いていきながら、紅は先ほどの桂との会話を思い出す。
「お頭さん」
「…何だ」
「俺は雪耶紅。昨日は名乗るのを忘れてたから…一応」
知らないよな?と言う確認も含めた紅の言葉に、彼の視線が彼女の方を向く。
すぐに前方へとそれを戻し、彼も口を開いた。
「高杉晋助だ」
あまりにも短い一言の自己紹介だった所為か、初めはそれが名前だと理解できなかった。
一瞬の間を置き、あぁ、と納得する紅。
高杉、晋助。
それがお頭さん…もとい、彼の名前なのだろう。
「高杉、ね」
忘れないようにと、口の中でそう呟く。
前を歩く彼に届くほどの音量ではなかったけれど、その名は確かに紡がれた。
こうして、誰かの名前を知るのは、何年ぶりのことだろうか。
母が死んでからはずっと独りで生きてきた紅。
毎日顔を合わせるのは敵対している天人ばかりで、名前を知る必要などなかった。
名前を覚えると言う無意識の行為自体も、本当に久しぶりのことなのだ。
高杉、高杉…頭の中で何度も繰り返す。
顎に手をやって顔を俯かせ、ただ只管彼の後に続く様は少し不審だ。
ふと、彼女の前を歩いていた高杉が足を止める。
「紅」
「ぅあ、っと。はい」
そのまま背中にぶち当たりそうになった紅は、慌てて後ろに二歩ほど下がる。
明らかに体勢を崩していたにもかかわらず、問題なく姿勢を戻す彼女。
バランス感覚が良いのか、運動神経が良いのか…はたまた、その両方か。
恐らくは彼女の身体に流れる天人の血がいくらか影響しているのだろう。
高杉は、彼女の動きを見ながらそう思った。
「敬語は必要ねぇ。それより…その格好に理由はあるのか?」
「格好…?」
鸚鵡返しにそう呟き、彼の言わんとしている意味を理解する。
その格好…男のような身なりに理由があるのかと問われているのだ。
それを問うということは、つまり―――
「…気付いてたのか」
「見ればわかる」
短い答えに、参ったな…と頬をかく紅。
「独りで生きていくには、女より男の方が都合が良いんだ」
生きていくための知恵。
幸い、恐れ噂されるほどの腕があり、見た目さえ男に似せておけば、まず女だと疑われない。
「…改めるつもりがないなら、別の名前を考えておけよ」
「このままでいいの?」
「構わねぇ。寧ろ、女に戻せば飢えた奴らに食われるぜ?」
「そりゃ困る。じゃあ………暁斗で」
軽く偽名を決めてしまう彼女に、高杉はフッと鼻で笑う。
そして、止めていた足の動きを再開させた。
「雪耶、暁斗」
自分の名前を忘れないようにと、紅は小さく呟いた。
―――この名と共に生きていく。
その決意を胸に刻み込む。