空色トパーズ
Target --008
「――――!」
ツナの意識が浅い睡眠の中から引き上げられる。
何か、聞こえた。
悲鳴と呼ぶにはあまりにも小さく、けれど気の所為だとは思えない程度のそれ。
ベッドの上で身体を起こした彼は、茶色い髪を掻いてから目覚まし時計を見た。
時刻は2時半―――夜明けにはまだ遠い。
眠るリボーンを横目に、ツナはベッドを抜け出した。
水の一杯でも飲んだら眠れるだろうか。
廊下に出た彼は、そこで隣の部屋のドアが僅かに開いている事に気付く。
隣は、紅の部屋だ。
寝る前に閉め忘れたんだろうか―――そんな事を考えながら、部屋の中を覗き込む。
布団がめくれ上がったベッドの上は、もぬけの殻。
「!?」
思わずドアを押し開いた彼の目に入ったのは、無人の室内。
女性らしく、けれどもシンプルに整えられた部屋の中で、唯一ベッドの上だけが僅かに寝乱れている。
―――紅はどこに行った?
ツナは静かにベッドに近付き、そっとシーツに触れた。
まだ、あたたかい。
彼女が離れてからそう時間は経っていないのだと知り、部屋を出る。
そこで、カタン、と小さな音が一階から聞こえた。
彼の足は迷わず階下を目指す。
リビングのドアが薄く開いていた。
ドアのガラス越しにも明かりがついていない事は明らかだ。
ひんやりとしたドアノブに手をかけ、無音でそれを開く。
ツナが通れるだけの幅にした彼は、ソファーの上に人影を見つけて安堵した。
暗闇に慣れた目が、見えている背中に流れる赤い黒髪が彼女のものであると教えてくれる。
「紅、姉さん」
驚かせないようにと優しく声をかけたつもりだったが、彼女はビクリと大げさに肩を揺らす。
悪い事をしたかな、と思いつつ彼女の顔が見える位置に移動したツナは、そこで動きを止めた。
固まってしまったと言っても、過言ではない。
理由は―――紅が、その白い頬に涙を伝わせていたから。
「どうしたの!?」
金縛りの状態から解放された彼は、慌てて彼女に詰め寄る。
咄嗟に涙をぬぐった彼女は、首を振った。
「何でもないわ。気にしないで」
「何でもないって…」
「水でも飲みに来たの?明日も学校なんだから、飲んだら早く寝ないと」
ツナの視線から逃げるように顔を逸らし、矢継ぎ早にそう言う彼女。
紅が泣いている所なんて、今まで見た事がない。
そんな彼女が涙を流しているのに、見なかった事にして眠る?
そんなこと―――出来るわけないじゃないか。
ツナは無言でキッチンに向かった。
カチャカチャと食器が触れ合う音、冷蔵庫が開き、そして閉じる音、電子音。
3分後、彼は湯気立つカップを両手に持って戻ってきた。
「ほら。こんなのしか用意できないけど…」
差し出されたそれはホットミルクだろう。
思わず受け取れば、優しい香りが鼻孔を擽る。
こくん、と一口飲めば、少し熱めの、けれど熱すぎない温度のそれが喉を滑り落ちた。
それを見届けてから、ツナは半人分の距離をあけて彼女の隣に腰を下ろす。
「…綱吉」
咎めるような声。
ツナは気にした様子もなくホットミルクを飲む。
「俺、聞くまで寝ないから。話せない、話したくないって言うなら…せめて、姉さんが部屋に戻るまで」
無理強いはしたくない。
けれど、独りで泣かせるつもりもない。
強くなりたいと思ったのは昨日の事――― 一朝一夕で彼女を守れる強さが得られるはずはない。
それでも、彼女の傍にいる事くらいは出来る。
「…昔は何でも言う事を聞いて、素直だったのに…」
涙の所為で少し鼻にかかった声が、そう呟く。
いつの話だよ、と頬を掻いた。
「―――夢を…見るの。8年前の、あの時の夢を」
今となっては5カ国以上の言葉を使いこなせるようになったから、イタリア語も恐くはない。
けれど、8年前…少女だった紅には、そうではなかった。
縛られていて自由にならない身体。
四方八方から囁かれる異国の言葉。
彼女の中に、拭い去ることのできない恐怖が植え付けられていた。
「二度とあんな事が起こらないようにと、指先が裂けるほど引き金を引いて、的を撃った。
寝る間も惜しんで本を読んで、手当たり次第に知識を得たわ。私は―――強くなった」
それなのに、夢の中の自分は、いつだって手段を持たない少女なのだ。
ただ恐怖に震え、時間が過ぎるのを待つしかできない。
まるで忘れることを許さないとばかりに、数ヶ月おきに夢が彼女を蝕む。
無力だった頃を思い出させられる事が、何よりも苦痛だった。
次から次へと、紅の目が涙を零す。
頬を伝った涙が顎からぽつり、ぽつりと落ちる。
隣に座る彼女は、手段を持たない少女ではない。
けれど、ツナには彼女がとても弱い―――少女のように見えた。
夢から逃げだす事が出来ず、無力さに涙する、ただの女の子だ。
細胞が震えた―――歓喜に。
「紅」
彼女の分と自分の分のカップをコトンとテーブルの上に置く。
そして、そっとガラス細工に触れるように優しく、彼女の手を取った。
自分を見つめる彼女の目元を拭えば、親指が涙に濡れる。
「何も知らなくてごめん」
「綱、吉」
「死んだって言われるのが恐くて、母さんにも確認すらしなかった。心配しながら、何もしなかった。
紅が頑張ってる間も、ずっと無意味に生きてきた。―――ごめん。それから、ありがとう」
どうして、もっと早くに彼女の事を知ろうとしなかったんだろう。
死んだと告げられる事に怯えて、ぬくぬくと生きてきた自分を殴ってやりたい。
意味を見いだせずにダメツナと言われて生きていた間にも、彼女はこんな風に独りで泣いていたんだろうか。
真実を知ることを恐れ、彼女の事を頭の隅に追いやった自分を、守ろうとして。
歯痒さや苛立ち、後悔―――色々な感情がどす黒く渦巻いて、胃のあたりにズシンと圧し掛かる。
「守るよ。俺が―――守るから。今はまだ弱いけど、強くなる」
それは誓いにも似た言葉だった。
「だからもう、頑張らなくていいよ」
見開かれた紅の目から涙の粒が零れ落ちる。
紅は、謝罪も感謝も、望んではいなかった。
始まりは、会えない寂しさよりも、自分と同じ思いをさせたくないと思っただけだったから。
自分を守るために強くならなければならなかった。
それが、ツナを守ることに繋がっただけ。
―――頑張らなくていいよ。
その言葉に、胸の辺りにあった何かが、ストンと落ちた。
自分は…頑張っていたのか。
二十歳に満たない、幼いと称されてもおかしくはない年齢で、大人の中を生きてきた。
ずっと、全力で走っていたような気がする。
もう、足を止めてもいいのだろうか。
ツナはそっと彼女の両頬に手を添えた。
そして、二人の額を合わせる。
「紅の事、俺が守る。だから、何もしなくていい。ただ…俺の傍で笑っていて?」
「…綱吉」
「うん」
彼を呼ぶ声は、彼がそこに居る事を確認するような、そんな声だった。
小さく笑みを浮かべてそれに答える彼。
最後の一粒を頬に零しながら、彼女が柔らかく微笑んだ。
「ありがとう―――」
09.12.05