羽化 03
--黒揚羽 番外編
ディーノの予想通り、ファミリー全員に連絡がいきわたったのはあれから25分と少し後の事。
緊張した面持ちでボスの帰りを待っていた全員の視線を一身に浴び、彼は口元を引き締めた。
「状況はわからねぇ。ただ、紅が新参者に誘拐されたって事だけは確かだ」
低くそう紡がれ、一行からは落胆や焦りといった声が零れる。
ざわめく室内に入ることの出来なかった者が廊下まで溢れていて、屋敷内は騒然となった。
このままでは埒が明かない、そう判断したディーノは、胸ポケットに入っていた銃を取り出す。
そして、それを窓の方へと向けた。
銃声と、窓ガラスの割れる音。
シン…と静まり返る室内。
「この部屋の中の奴は、全員町に出ろ。何でもいい情報を探すんだ。他の奴は残って他のファミリーと連絡を取れ」
分かったな、と確認するよう部下を一瞥すれば、返事の声は無いにせよ力強い頷きが返って来る。
そんな彼らを見て、ディーノもまた頷いた。
「…頼んだ」
彼らにとって、ファミリーにとって―――そして、何より自分にとって大切な、大切な彼女。
まだ思い出が記憶の全てを占めるほどに長い付き合いではない。
しかし、彼女の存在は自分と言う人間の中で大きく、愛しかった。
「っ…」
ズキンと痛むこめかみに、紅は眉を寄せた。
何か硬いもので殴られたそこは、指先でなぞればしっとりと濡れている。
一瞬小さいけれども鋭い痛みを感じ、そこに切り傷があることを悟った。
顔側面全てを濡らすほどではないのだから、傷自体はそう大きいわけでも深いわけでもないらしい。
そう判断すると、状況を探るべく視線を周囲へと向けた。
どこか、倉庫のような造り。
いくつかのコンテナが眼前に見え、自身もまた少しくすんだ臙脂色のそれに寄りかかっている。
そこでふと、左腕が自由にならないことを知った。
「悪趣味…」
見下ろした先にある銀色の手錠に、紅は思わずそう呟いた。
この状況で混乱に我を失うほど、彼女も馬鹿ではない。
自分の生きている世界は、そう平和な世界ではないのだ。
こんなに露骨にそれを感じた状況は初めてだったが、別段驚くわけでもなくそれを受け入れていた。
焦ったところで、状況が変わるわけではない。
寧ろこう言う時こそ冷静に対処すべきなのだと、彼女は本能的に知っていた。
一言で言うならば、この場所は酷く広い。
自分の身長以上にあろうかという高いコンテナがいくつも並んでいる事からでも、それは十分に分かる。
「さて…どうしようかな」
人の気配は、ない。
まだ目を覚まさないと思っているのか、手錠があるのだから逃げられないと高を括っているのか。
どちらと判断する事は難しいが、兎に角紅は一人だった。
試しに腕を動かしてみれば、ガチャンとあまり耳障りの良くない音が耳に届く。
何度か揺らしたところで外れそうにはなかった。
「それにしても…アルノルドの言ってたのがこう言うことだったとは…ね」
あの話を聞いた後で自分が誘拐され、その意味が分からないほど天然呆けしているつもりは無い。
自分が恋人と見られていたことは少しばかり予想外だったが、行動を思い返してみれば無理もなかった。
街中だろうが、自分の思うままに彼と行動を共にしていたのだ。
本人達の間に甘い関係などなくとも、そう邪推するのは人の性。
戯れにテンポを取るようにガチャン、ガチャンと手錠を揺らしながら、紅はそんな事を考えていた。
「…探してるよね、きっと」
そう呟き、紅はよし、と頷く。
そして自身の指先を手錠の上に滑らせた。
「…負の1300秒」
小さくそう紡ぐが、手錠に変化は無い。
暫くそれを待ってみたが、一向に変わる事のないそれに「ふむ」と高い位置にある窓を見た。
さほど時間は経っていないと思ったのだが、どうやら少し足りなかったらしい。
「あと負900秒、って所かな」
そう言いながらもう一度指先でそれをなぞれば、まるで手品のようにカシャンと鍵が開く。
自由になった手首をもう片方のそれで撫でながら、彼女は立ち上がった。
「45分は経ってるって事ね」
時間が経てば経つほど、騒ぎは大きくなる。
あまり事を荒立てないで欲しいと思うが、何の心配もされなければそれはそれで寂しいと言うのが本音。
それにしても、と彼女は周囲を見回す。
「誘拐しただけで満足なわけ?」
誘拐し、放置。
見つからない、逃げ出さないと言う可能性に賭け、衰弱死でも望んでいるのだろうか。
相手の考えなど到底理解できず、浮かんだのはその程度の答え。
恐らく外れていて、何か別の意味があるのだろう。
「ま、何でもいいか」
ふぅ、と溜め息を吐き出しながら、耳に嵌めたピアスに手を伸ばす。
丸い石を嵌めこんだそれをホールから抜き取ると、足元に落とした。
気に入っていたんだけどなぁ、などと思いながら、ブーツの踵でそれを潰す。
パキッと音を立てて壊れたそれを見下ろし、紅はもう一度溜め息を吐いた。
アスファルトの上を走り、ディーノは周囲に隈なく視線を向ける。
ふと、突然彼のポケットに納まっていた携帯がけたたましい音を響かせた。
「!!」
何事だ?と言う道行く人の視線を受けつつ、焦りながらそれを取り出す。
適当にボタンを押せば音が止み、周囲の視線もまた彼から離れていく。
それに息を吐き出しつつ、ディスプレイを見下ろした。
「やっと来たか」
過保護かと思ったが、持たせておいて正解だったと思う。
彼女の耳に常に輝いていたピアスは、ディーノが独自に作らせたものだ。
何らかの衝撃を与えれば、彼の携帯にその位置情報が届くと言う優れもの。
結構な金が動いた代物ではあるが、今回の為だったと思えば安いものだ。
ディスプレイを見て、さほど遠くないと脳内が判断すると同時に、足は駆け出していた。
この時、彼が一人でも部下を連れていたならば…また、別の未来が訪れたのだろう。
どうやら、誘拐犯は逃げられないから自分を一人で残したらしい。
しっかりと鍵のかけられた扉を前に、紅はそんな事を考えた。
「手錠同様に逃げ出せるんだけどな…」
もちろん、そんな事を相手が知るはずも無い。
万が一にも手錠を抜けられたとしても、出口に鍵さえかけておけば逃げる事は出来ない。
そう考えるのは、ごく普通の事だろう。
「ディーノの到着を待つか…」
まさか、渡されたピアスが役に立つ日が来るとは思わなかった。
そんなの過保護だよ、と笑ったのは、彼がボスになってから数日後の事だったように思う。
正常に作動したならば、すでに彼への連絡は届いているはずだ。
くるりと扉に背を向け、元繋がれていた場所に戻る彼女。
手錠を指先で遊ばせながら、ぼんやりと高い天井を仰ぐ。
紅の耳に車のエンジン音が聞こえたのは、それから数秒後の事だ。
次いで、数人の話し声。
そのあと、彼女が背にした扉がガタンと揺れ、ガチャガチャと耳障りな金属音が聞こえる。
ゆっくりと扉が口を開いていくのを見ながら、紅は差し込む光にそっと目を細めた。
「お目覚めか、お嬢さん」
さぁ、時間稼ぎの始まりだ。
そんな事を思い、顔に出さないよう心中でクスリと笑う。
出来るだろうかと思うことなど、許されない。
彼がここへたどり着くまでの間、相手を逃がさないように、また自分もこの場所を離れないように。
口にするのは簡単で、しかし、実行に移すのは難しいだろう。
それでも出来ると心中で呟けば、それは自信へと繋がる。
手錠が外れていると気付かれないようにそれを手首に沿え、男と対峙する。
侮られる理由は、女であるということだけでも十分であるこの世界。
真正面からの鋭い眼差しに一瞬怯むも、男はすぐに笑みを取り戻した。
彼もまた、伊達や酔狂でこの世界に足を踏み入れたわけではないらしい。
06.12.20