黒揚羽
Target --099
携帯を操作しつつ、溜め息を零す。
小さなディスプレイに映るのは、彼女の携帯に保存されたアドレス。
その中の一つは、この5年間、一度も使われていないものだ。
彼は今…どうしているだろうか。
時折ふと、あの頃のことを思い出す。
日本と言う微温湯で過ごした時間は、紅をとても弱くしていた。
ファミリーの家を回る合間にキャバッローネに戻っていた紅は、そのことを痛感する。
正直、このままでは駄目だと思った。
ディーノは必要ないと言ってくれるけれど、彼女自身がそれを許すことが出来ない。
修行に明け暮れたこの5年間の日々を思い出し、静かな笑みを浮かべる。
「紅、お前に客人だ。出てこられるか?」
自室のドアの外からディーノがそう呼びかけてくる。
行くわ、と答え、携帯を閉じて腰ポケットに押し込んだ。
程よい硬さのソファーから立ち上がり、ドアへと向かう。
開いた先にはまだディーノがいて、彼は紅を見るなり小さく微笑んだ。
「誰?」
「絶対驚くぞ。久しぶりだからな!」
そう言って笑ったディーノは、5年前よりも大人びた。
5年前のあの頃は、まだどこか青年とも言える雰囲気を持っていた彼だが、それがなくなりつつある。
ディーノを意識する女性も少なくはないようで、一度町に出れば道行く女性たちが色めく。
幾度となく向けられた羨望や嫉妬の眼差し。
今となっては彼のファミリーであることも知れ渡り、そんな視線もある程度落ち着きを見せている。
「どこに通してくれた?」
「応接室だ。茶は用意させてあるから、そのまま行こうぜ」
そう言って先を歩く彼。
どうやら、客人は紅にだけ関する人物ではないらしい。
もしかして―――そんなことを考えながら、彼の隣に並んだ。
先に入っててくれ、と言われた紅は、豪華な作りの扉を押し開け、応接室の中へと入る。
見栄えの良いソファーに座る人物が、紅の存在に気付いて顔をあげた。
その表情が喜びを露わにする。
「紅!」
「…ツナ?」
パッと笑顔を見せた彼は、沢田綱吉。
紅がもしかして、と思った人物の…上司、いや、ボスと呼ぶべきか。
「電話は何度かしたけれど…顔を合わせるのは本当に久しぶりね。格好良くなったわ」
「あ、ありがとう。紅は…」
「変わらない、と言ってもらえたら十分だわ。この先は老けると言った方が正しいもの」
「そんなことないよ!綺麗になってる」
首を振ってそう答えた彼は、かつて中学生だった頃の子供っぽさが消えている。
男の子の成長は早いな、なんて少し年寄りみたいなことを考えつつ、閉じた扉から離れて歩く。
「ごめんね。色々とつらい思いをしたのに…助けてあげられなくて」
「紅が気にすることじゃないよ。それに…色んな人に助けてもらったから」
成長しても、本質の優しさは何も変わらないようだ。
「今日はどうしたの?」
「高校を卒業したから、その報告にボンゴレに行ってきたんだ。あ、お祝いありがとう」
「どういたしまして。そう言えば、今は卒業式の時期なのね。この所忙しくて、カレンダーも見ていなかったわ」
もうすぐ卒業だと聞いていたから、祝いの品を送るのは忘れなかった。
だが、それも忙しくなる前にと少し早めに日本に送っていたから、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。
なるほど、と思いつつツナを見る。
高校卒業という一つの節目を迎え、彼はまた一歩、大人へと成長したらしい。
この5年間、彼は平穏とは無縁の生活を強いられてきた。
そのすべてを乗り越えた結果が、目の前の彼なのだろう。
「獄寺や山本は一緒じゃないのね」
「あ、皆で来たんだよ。ちょっと…色々あって、ボンゴレに残ってもらってるけど」
そう答えるツナに、紅が少しだけ表情を歪めた。
この部屋の中にボンゴレの姿はない。
まさか、一人で来たのだろうか。
「わかっていると思うけれど、あまり単独行動は良くないわ。あなたは狙われる身だから」
「うん。ちゃんとわかってる。一人だけ一緒に来てもらったから」
気にした様子もなく、穏やかに笑みを浮かべたツナ。
一人ではないと言うことに安堵した紅の後ろで、中開の扉が開く。
開く扉にぶつかる位置ではなかったけれど、音に反応して振り向く彼女。
しかし、その身体が完全に反転するよりも早く、伸びた腕が彼女を拘束した。
拘束と言うと聞こえがよくないだろうか。
要は、二本の腕により、抱きしめられたのだ。
油断ではない、これは、ある種の信頼だった。
これが例えば見知らぬ男の腕だったとすれば、触れられた瞬間に引き倒して逆に拘束しているだろう。
本能的にそれを行えるだけの修行を積んできたつもりだ。
身体が反応しなかったのは、一瞬のうちに、この腕の主が自分が知る者のものであると理解したから。
自分とは違う色、黒い髪が視界の端で揺れ、後ろから肩に額を寄せられる。
振り向くこともできず、ただ茫然とした紅の視界の中で、ツナが嬉しそうに笑った。
「俺、ちょっとディーノさんと話をしてくるね」
悪戯に微笑んでそう言うと、ツナは二人の横を抜けて応接室を出て行った。
この状況で残された紅は、優しく、けれど強い抱擁に指先ひとつ動かすことができない。
彼と会うのは何年振りだろうか。
会わないと決めていたわけではないけれど、会わなかった。
連絡しようと思ったことがないわけではない。
けれど、紅から連絡したことはなかったし、彼からの連絡もなかった。
つまり、そう言う事なんだろうと納得していた部分があったのだが。
今、まさに彼の腕の中にいて、そこにいくらかの安心感を覚えていて―――そんな自分に、小さく苦笑した。
「…久しぶり…ね」
天井を仰ぐように上を向き、少しだけ体重を預けてみる。
まるで、初めからそこに存在していたようなぴったりと嵌る感覚。
守るように抱きしめてくれるこの腕ならば、すべてを預けることができるのかもしれないと。
素直にそう思わせてくれる彼に身体を預け、そっと瞼を伏せた。
10.08.07