黒揚羽
Target --095
紅の治療に当たった医者は複数人いたが、その誰もが首を傾げた。
現場や失血状況から考えて、重傷…いや、重態である事は間違いなかったのだ。
そう、ともすれば…その命が危ういほどに。
けれど、いざ病院に運ばれた紅の身体は、痛々しい傷こそ存在していたものの、精々重症止まり。
要するに傷は重くとも、それが命に関わるものではなかった。
手術室から出てきた医者に、集まっていたメンバーの視線が向けられる。
誰もが結果を待っていた―――出来るならば、良い結果を。
「…一命は取り留めました」
その一言に、どれほど安堵しただろうか。
強張っていた場の空気が溶けたと思うほどに、全員が胸を撫で下ろした。
「ディーノさん、少し。…リボーンさんもお願いします」
医者は紅のボスであるディーノと、そしてリボーンを呼んだ。
部屋の中へと二人を招きいれた彼は、帽子を脱ぎながら口を開く。
「傷口が治り始めています。心当たりは?」
そう問われ、ディーノとリボーンが顔を見合わせた。
ベッドで目を閉じる彼女には今、輸血を行っているようだ。
「紅だな。死ぬ気の炎で傷口を撫でた」
「…確かに、あれしか思い浮かばねぇよな…」
「そうですか。詳しく見たわけではありませんが…傷口の細胞が活性化されているようですね」
失血による顔色の悪さが窺える彼女を見つめる。
その表情は安らかでも苦悩でもなく…言うならば、無だった。
蝶のタトゥーはガーゼの下に隠れていて見えない。
「とりあえず、彼女の傷は治りかけていて、命に別状はありません」
そう言うと、彼は片付けのために隣の部屋へと向かった。
ディーノが足を進め、ベッドの傍らに立つ。
「…そう言えば、暁斗はどうしたんだ?あいつが来ないのはおかしいだろ」
思い出したようにリボーンが問いかける。
部屋の中を見回したところで見つかるはずもない人物。
実はその人こそ、あの現場に居合わせるべき人間だったのだと知る人は少ない。
「………何でも、紅から命令を受けてたらしくてな…間に合わなかった事を悔やんでる」
「…ボディガードも形無しだからな」
「あぁ。役目を下ろしてくれってさっき連絡が来た。一応保留にしてあるんだが…」
紅が決めるだろ、と呟くディーノ。
暁斗は紅の父親代わりだが、それはあくまで周囲の目を欺くためのもの。
9代目の娘であるという事実を隠すためのものであり、それが全てではない。
彼の本当の役目は紅のボディガードだ。
本来であれば、誰よりも彼女の傍にいて、いざと言う時にその身で彼女を守る事が仕事。
普段から気さくに接する彼女や周囲の環境により、本来の役目が疎かになっていた事は否めないだろう。
すぐにでも脳天をぶち抜きそうな声だった―――ディーノは、電話口の彼をそう語る。
紅が目を覚ましたのは、翌日の太陽が高く上った頃だった。
その場に居たのはディーノとリボーンだけ。
「さっきまでは恭弥もいたんだぜ」
「…そう」
笑顔のディーノの言葉に、紅は短く頷いた。
麻酔も残っているのか、彼女はぼんやりした様子で天井を見つめている。
「…紅、空のリングってのは何だ?あの時、何をしたんだ?」
ディーノの肩に乗ったリボーンが質問を投げかける。
何も今聞かなくてもいいだろう、と咎めるような視線を向けるディーノ。
彼女の目が、ちらりと二人を見た。
「“我が最愛の者に送る。このリングが彼女を守るように”」
流れるように紡がれた言葉は、彼女のものではないのだろう。
そっと瞼を伏せ、彼女は続けた。
「空のリングを作ったのは、ボンゴレ1世。彼が…最愛の人を守るために、作ったリング」
「…初代か」
「ボンゴレリングと言うよりは大空のリングの眷属として存在しているわ」
「何でそれを知ってるんだ?」
「………空のリングと共に、初代の手紙が引き継がれている、から」
代々、ボンゴレボスはボンゴレリングと共に空のリングを継承した。
それを誰かに与えるかどうかは本人の意思に委ねられている。
過去には、空のリングを持ち続けたボスもいたらしい。
時に妻であり、時に子供であり…空のリングは、ボスにとって最も愛する者へと渡された。
そして今、このリングは紅の元にある。
そこまで話すと、彼女は眠るように意識を手放した。
やはりまだ質問を投げかけるには早かった。
多少それを感じたのか、リボーンは何も言わずに息を一つ。
その時、病室のドアが開き、無表情な雲雀が姿を見せた。
「お、帰ってきたか。さっき紅が目を覚ましたぞ」
ディーノが親しげにそう声をかけると、雲雀の表情が僅かに動く。
すぐにベッド際まで歩いてきた彼は、先ほどと変わらない様子の彼女に訝しげな表情を見せた。
「少し話したらまた寝ちまったんだ。タイミングが悪かったな」
その声が聞こえているのか、いないのか。
雲雀は視線一つも返さず、ただ無言で紅を見下ろした。
一度は目を覚ましたという事実に少なからず安堵したのだろう。
その空気がほんの少しだけ和らいでいるのを感じる二人。
やがて、雲雀が顔を上げてディーノを見た。
「紅の恋人って誰?」
唐突な質問だった。
思わず瞬きをしたディーノは、必要ないのに許可を求めるようにリボーンを見る。
しかし、そんな彼の救いを求める眼差しを無視したリボーンは、ぴょんと彼の肩を飛び降りた。
「俺はツナの修行に戻るぞ」
そう言い残し、さっさと病室を後にするリボーン。
裏切り者、と言う呟きはその背中には届かないほどに小さなものだった。
「…紅の恋人、な。今はいないはずだ」
「元、でもなんでもいいよ。その男は誰で、どこにいるの?」
「どこにいるのかは俺にもわからない」
ディーノが知っているのは、骸と共に脱獄し、再び投獄されたという事だけ。
その後の事は、調べればわかるだろうけれど、現時点で彼の頭の中にはない。
首を振るディーノに、雲雀は鋭い視線を向ける。
「どうして来ないの?」
「来ないんじゃない、来れないんだ。あいつは…骸と共に脱獄したが、今は投獄されている」
「…六道、骸…」
嫌な名前を聞いたとばかりに表情を歪める雲雀。
「それより、恭弥。何でランチアの事を知ってるんだ?」
「紅から聞いた。忘れられないらしいね」
「…そうか。そうだな…忘れられないだろうな、紅にとっては」
キャバッローネに来た頃の紅の様子を知っているからこそ、納得できる。
紅の中には、あの忌まわしくも哀しい記憶と共に、ランチアへの想いが存在している。
再会を果たさなければ思い出さなかったのかもしれない。
けれど、出会ってしまったから。
再び加速する感情に戸惑っているのは、他でもない彼女なのだと思う。
ディーノから見れば、紅にとっての雲雀は特別な存在だった。
けれど恐らく、そんな雲雀以上に。
「紅が話していないことを俺の口から話す気はない。だが…一つだけ言っておく。
ランチアの事は、紅にとっては複雑な状況があるんだ。あまり追い込んでやるなよ」
ディーノにとって紅は大切な部下で愛しい女性だが、雲雀も大事な弟子だ。
どちらの味方でもあるからこそ、それだけしか言えない。
雲雀はディーノから視線を外し、紅を見下ろしながら白い頬を撫でた。
そして、それ以上何も言わず、病室を後にする。
「紅…目を覚ませよ」
それを望んでいるのは一人や二人ではない。
今夜に向けて修行を続けているツナもまた、彼女を気にかけているだろう。
間に合うか、合わないか―――今夜の戦いを思い、静かに目を伏せた。
10.07.24