黒揚羽
Target --088
雲雀が予想していたよりも込み入った内容の話が終わったのは、間もなく夜が明けるという頃。
全てではないにせよ、大部分を話し終えた彼女は、ふぅ、と溜め息を吐き出した。
これを誰かに話したのは、初めてだ。
解散だと言った紅が、神妙な顔つきのディーノと暁斗を追い出した。
彼女の行動は、雲雀と二人で話したいことがあるのだと察するに難しくない。
彼らは何も言わず、いや、何も言えず、無言でリビングを後にする。
「驚いた?」
「まぁ、予想よりも複雑だったよ」
「…でしょうね」
これを予想できていたならば、彼には過去が見えるのかと思うだろう。
「だけど…漸く理解したよ。いくら君が草食動物に甘いと言っても、今回の事は度が過ぎているからね」
「…そうかしら。割と放任していると思っているけれど」
「そのつもりだったなら、一度考えを改めた方がいい」
辛辣な物言いに苦笑する紅。
「それで、君はどうするつもり?」
「…何のこと?」
「惚けても無駄だよ。あれだけ沢田綱吉に目をかけていた君が、何もしないとは思えない」
はっきりとそう断言する彼に、紅は思わず口を噤んだ。
「何もしないわ。それが9代目の意思なら」
「だけど、君はそうとは考えていない」
「…あなたは本質を見抜くのが上手いわね。本当に、嫌になるわ」
「褒め言葉として取っておくよ」
そう淡白な反応を見せる彼。
紅はその横顔を見つめ、やがて手元へと視線を落とした。
「万が一の時は動く―――今言えるのは、それだけ」
手元のカップの中から見つめ返してくる自分自身。
この戦い、たとえツナが勝利したとしても、上手く事が運ぶとは思えない。
―――XANXUSの企みは、きっとあなたを傷つける。本当ならば、僕が傍で守りたい。
不意に、骸の言葉を思い出す紅。
「恐らく、骸は何かを知っているわ。それを教えてくれるつもりはないみたいだけれど…」
時間がないと逃げた彼は、きっとその内容を紅に告げるつもりはないだろう。
俯いていた紅は、その時の雲雀の表情を見ていなかった。
前から伸びてきた手が、彼女の手からカップを攫う。
やや乱暴にゴン、とテーブルに置かれるそれ。
その行動を問うように呼ばれた名は、中途半端に途切れた。
ぐるりと世界が反転する。
油断―――ではないと思いたい。
「…雲雀…?」
「六道骸と会ったの?」
「…言葉を交わした、と言うならばそれは事実よ」
それを問うためにこの姿勢は必要ないだろう。
彼を押し退けようと固定された腕を動かそうとするも、その手がより強い力で押さえ込まれた。
「また戦えるって言うのは本当?」
「それは彼次第よ。尤も、彼に許された自由はとても限られているから厳しいでしょうけれど」
「六道骸は君の何?」
立て続けの問いかけ。
紅はその質問に言葉を詰まらせた。
―――骸は自分の何?
少なくとも、弟ではない。
間違いなく、大切な人と言える一人だ。
けれど、それを何と表現すればよいのか。
紅はその答えを持っていなかった。
「君は六道骸に心を許してる。六道骸も―――」
「…それに間違いはないわ。何が言いたいの?」
骸と自分の関わりなど、雲雀には関係のない事だ。
彼が骸を敵と見ていて、咬み殺す対象であることは明白。
それ以上、何が必要だと言うのか。
その思いを込めて、彼を見上げる。
「…不愉快だよ。六道骸も、跳ね馬も、沢田綱吉も―――君が気にかける人間全てが気に食わないね」
「それはあなたには関係ない事よ。私の繋がりに文句を言われる筋合いはないわ」
骸もディーノも大切なファミリーで、ツナも大切な友人。
その関わりを気に食わないと言う彼の言葉が、紅の癪に障った。
今までは大人しくしていた彼女だが、不快感を隠そうともせずに雲雀を押し退ける。
いや、押し退けようとしたのだが、押さえられた手をより強い力で押し留められた。
彼女の表情が歪む。
「不愉快だ。君が誰かを気にかけるのも、誰かが君を気にかけるのも」
「だから―――」
「この感情を、好きと表現するんだろうね」
雲雀が、薄く微笑んだ。
そして、世界が音を失う。
どのくらいの時間、沈黙していたのだろうか。
唖然とした表情の彼女の唇から零れたのは、場に似合わぬ言葉。
「驚いた…あなたの辞書には、嫌いと言う感情しか載っていないんだと思っていたけれど…」
「…君も大概失礼だね」
「日頃の自分を省みてから言ってちょうだい」
嫌いの他に“気に入った”という感情はあるかもしれない。
けれど、嫌いと言う言葉が占める割合が圧倒的に多くて、気に入る人物など片手で事足りてしまう。
彼の言葉に説得力はない。
「恐らく、その“好き”は言葉を間違えていると思うわ。
私はあなたの“お気に入り”かもしれないけれど、恋愛感情の対象ではないはずよ。」
「君が気にかける男は全て咬み殺したくなる。それこそ、原型を留めないくらい。君に気を向ける男も同じだ。
君が傍にいないと日常が欠けているみたいで不快だし、笑っている顔を見るのは嫌いじゃないと思う。」
すらすらと紡がれる言葉の数々は、間違いなく彼の本心なのだろう。
迷いのない彼に、紅は言葉を失っていた。
「この感情を表す言葉は“好き”じゃない?それなら、“好き”と言う感情は何?」
「何って…聞かれても、困る、けれど…」
確かに、咬み殺したくなる感情は嫉妬で、その理由は好きと言う感情だろう。
でもまさか、雲雀が?
紅の中に驚きのほかに、戸惑いの感情が生まれた。
目を逸らす事無く自分を見下ろす彼を、あえて見つめ返してみる。
嘘偽りなく、彼は自分なりに“好き”と言う感情を理解し、伝えてくれている。
もう、その感情は違う、間違えているのだとは、言えなかった。
紅は目を細め、離して、と告げる。
ゆっくりと解放される腕。
身体を起こせば、彼も先ほどまで座っていたソファーに戻った。
乱れた髪を手櫛で整え、これから彼に告げる言葉を脳内で整理する。
そして、紅は静かに口を開いた。
「…私には、忘れられない人がいるの。いいえ、忘れてはいけない―――愛した人」
あの再会の日から、自分なりに考えてみた。
始まりの言葉なく、いつの間にかそう言う関係になっていた自分たち。
けれど…その心は、確かに寄り添っていたと思う。
紅が出した結論。
それは、自分は自分なりに、ランチアを愛していたという事。
それが現在進行形となるのか、過去形となるのかはまだわからない。
「だから、ごめんなさい。私はまだ、他の誰かに隣を許す気はないの」
雲雀を意識する心がある事は否定しない。
けれど、それはまだ愛と言うには小さすぎて、言うならば恋に近い。
ランチアに抱いた感情は、間違いなく愛だった。
「なら、いつ?」
「え?」
「いつなら、隣を許す気になるの?明日?一週間後?それとも十年後?
いつまで、隣にいない男に囚われるつもり?」
「それ、は―――」
はっきりとした答えなど、出せるはずがない。
「その男を咬み殺したら、君は僕のものになる?」
「彼を殺すと言うのならば、私があなたを止めるわ。刺し違える覚悟で」
今度は迷いの間を置く事なく、紅は強い目でそう答える。
雲雀は不満げに目を細めた。
「この戦いが終わったら、もう一度話を聞く。連中が学校で好き勝手している間は落ち着かないからね」
それだけを言うと、彼はソファーから立ち上がる。
出口に向かって歩き出す彼に腰を上げると、振り向いた彼が手でそれを制した。
「手の届く範囲に来たら無理にでも引き寄せるよ。それが嫌なら、近付かない事だ」
その言葉に絶句している間に、彼は姿を消した。
残された紅は息すら忘れたようにその場に佇む。
これから取るべき行動に正解があるのならば、誰か教えて欲しいと思った。
10.05.29