黒揚羽
Target --086
「そろそろ暗くなってきたわね。送るわ」
どこに住んでいるの?と問いかければ、クロームがスッと視線を逸らす。
その行動に疑問符を抱く紅。
「クローム?」
「―――――」
顔を俯かせながら身体を小さくして、ギリギリ聞き取れる程度の小さな声で答える彼女。
それを聞いた紅はにっこりと笑顔を浮かべた。
「クローム…もう一度骸を出してくれるかしら?」
「紅、さん?あの…」
「あぁ、気にしなくていいのよ。あなたが悪いわけじゃないわ」
「…骸様は、出てこられないみたい、です」
彼がそれを拒んだのか、本当に出てこられないのか。
どちらなのかはわからないけれど、それ以上の言及はクロームを戸惑わせるだけだ。
長い溜め息を吐き出した紅は、鞄から携帯電話を取り出した。
「………私よ。部屋確保して欲しいんだけど…ええ。少なくとも4LDK以上で」
「紅さん?」
戸惑ったようなクロームの声に、紅は視線だけを彼女に向ける。
そして、人差し指を唇に乗せ、黙っていろと示した。
「ええ、それでいいわ。費用は全部私の口座から落として。………あら、ありがとう。
いつから使える?…明日ね、わかったわ。ええ、よろしくね」
電話を終えた彼女は、パタンと携帯を閉じる。
そして、鞄を持ち上げて席を立った。
「クローム、今日のところは私の家にいらっしゃい。あの子達も一緒に」
「え、でも…」
「骸は文句言わないわ。あなたのような女の子を廃墟で暮らさせるなんて、どうかしてる。
そう言う常識を教えなかった私にも責任はあるでしょうけれど…」
やれやれと額に手を当てて溜め息を吐き出した紅は、そのままクロームに手を差し出した。
彼女はどうしようかと視線をさ迷わせ、少し間を置いてから自身の手を重ねる。
「明日には新しい部屋を用意するから、一緒に買い物をしましょうね」
「どうして、そこまでしてくれるの…?」
状況が目まぐるしく変化している所為だろう。
クロームが敬語を忘れている。
良い傾向だと思い、紅はあえて何も言わなかった。
「骸は私にとって家族のようなもの。その骸が大切に思う人を守るのに、理由は要らないわ」
「でもお金…」
「気にしないで。馬鹿みたいに稼いでるから」
喫茶店の支払いを済ませ、マンションへの道を歩き出す。
いっそ大き目の一軒家を建てて一緒に暮らしてしまうか、とも考えたけれど、嫌がるだろうから止めておく。
骸は紅の提案を拒まないだろう。
けれど、恐らく紅の家には雲雀も顔を出す事になる。
彼らが顔を合わせるのはあまり良い状況ではない気がした。
「私の家は他にも一人同居人がいるの。暁斗って言うんだけど…私の親代わり」
「親…」
その時、クロームの表情に翳りが見えた。
紅はそれに気付き、しかしそこには触れず、話題を変えてしまう。
「彼らはどこにいるの?」
「…待ってる」
そこ、と指差した先。
かなり離れた位置に、黒曜生を見つける。
「連れておいで。あなたの話を聞かないなら、骸に代わってもらいなさい」
「…うん」
この時点で、骸が出てこられないわけではないと気付く。
クロームを廃墟に住まわせる事については、多少なりとも後ろめたさを感じたのかもしれない。
速くない足取りで去っていくクロームの背中を見送る。
二人の元へと辿り着いた彼女が、たどたどしく何かを話していた。
すると、彼らの視線が紅を見る。
恐らく、彼らは紅に良い印象を持っていない。
そんな彼らが彼女の申し出を受け入れるか、否か。
紅はその場から動かず、遠いところで話す三人の様子を見守った。
5分ほど待っただろうか。
漸く、三人が動きを見せた。
立ち去るわけではなくこちらに向かって歩いてくる表情は、複雑そうだ。
「…久し振り、と言うべきかしら」
声の届く位置にやってきた彼らに向けて、そう声をかける。
ケッと視線を逸らす犬。
その隣で、千種が無表情な目を向けていた。
「骸に代わったの?」
クロームに問いかければ、彼女はこくんと頷いた。
なるほど、やはり彼女ではこの二人を動かす事はできなかったか。
骸が全てといっても過言ではない彼らにとって、その代わりとなる彼女の存在を受け入れられないのだろう。
気持ちは、痛いほどよくわかる。
クロームを嫌っているわけではない紅だって、彼女を通すのではなく、骸本人と会いたいと思うのだから。
「明日には部屋を用意するわ。今日のところは私の家にいらっしゃい」
「…わかった」
「……………」
「犬」
「…わーった!」
不満を前面に出し、返事もしようとしない犬を諌める千種。
投げやりな返事を聞き、苦笑しつつも紅はマンションに向かって歩き出す。
先ほど、客間を用意しておいてくれと頼んでおいたから、帰る頃には準備も整うだろう。
「私の世話になるのは本位ではないでしょうね」
「…別に」
隣に並んだ千種を意外だと思いつつも、それを声に出さずに話しかける。
さほど大きくはない声の返事が聞こえた。
「………犬も、嫌ってるわけじゃない」
ただ、悔しいだけ。
ぼそりと呟かれた言葉に、紅は思わず彼を見た。
その横顔に表情はない。
表情を出さないようにしていると言った方がいいのかもしれない。
「私も…少し、寂しかった。
骸は私には何も話してくれなかったけれど、あなた達は関わる事を許されていたでしょう?」
それが正しい事だったとは言えないかもしれない。
けれど、少なくとも仲間と認めた事は確かだと思う。
彼は駒だと言って譲らないだろうけれど。
紅がこちらを見ていないのを確認し、その横顔に視線を向ける。
彼女の姿が本来の年齢ではない事は、既に骸から聞いていた。
その言動を考えれば、それも納得できる。
骸とはまた違う、年齢による落ち着きや冷静さ、そして広い視野を持っている彼女。
傍にいると、何故か安心してしまう。
これを、心地良いと言うのだろうか。
その微温湯のような空気が、犬にとっては受け入れにくい。
対等に扱われた事も、心地良い場所を得た事もないから―――逃げ出したくなるのだ。
いつの間にか、彼女の隣にはクロームがいた。
クロームもまた、彼女の空気に惹かれた一人なのだろう。
「犬、その態度はやめなよ」
「うるへー!」
「彼女は…あいつらとは違う」
忘れられない、過去の記憶。
人として扱われなかった日々は、今も頭に深く刻まれている。
「………そんなの、言われなくてもわかってるびょん」
心地良くて優しくて―――嫌になる。
骸が彼女を信頼し、愛しいと言う理由がわかってしまうから。
10.05.16