黒揚羽
Target --084
「勝負の前に一つ言っておく。合格だと判断したら、修行は終わりだ」
「…今更、言われなくてもわかってるよ」
「終わったら俺の話を聞いてくれ。
お前は無関係だというかもしれないが…話を知らない奴を戦わせるわけにはいかねぇんだ」
頼む、と告げれば、雲雀はスッと目を細めた。
「不景気な顔だね」
シャワーを借りた後、雲雀はリビングへとやってきた。
ベランダの窓ガラスを開け、その前でグラスを傾けていた彼女が振り向く。
「そう?まぁ、自覚がないわけじゃないから…否定はしないでおくわ」
「それ」
一言そう言った雲雀に、紅はきょとんと首を傾げる。
「君には似合わない表情だ。憂いなんて草食動物みたいだ」
雲雀は彼女の正面に座り、トレーの上に伏せられていたグラスを取る。
勝手に酒を注いで飲みだす彼に苦笑しつつ、紅は視線を外へと向けた。
「修行は順調?」
「さっき答えたとおりだよ」
「…そうだったわね―――」
不意に、グラスが手から滑り落ちる。
あ、と思った時にはガラス製のそれが床の上で砕けた。
幸い、中身は殆ど残っていなかったけれど、代わりに氷がガラス片の中に飛び散る。
紅は小さく溜め息を吐き、割れたグラスに手を伸ばした。
それに触れるか触れないかと言うところで、彼女の手の平に生まれた炎。
不安定に揺らめいたそれが消えたとき、彼女の手の中には元通りのグラスが握られていた。
「…今の炎…沢田綱吉のものとよく似ているね。途中、色が少し変わったようだけど」
「いずれ…あなたも知る事になると思うわ」
その言葉は、今は話すつもりはないと言う意思表示でもあった。
彼女は何事もなかったようにグラスに新たな酒を注いでグラスを傾ける。
雲雀は彼女を見つめながら、否応無しに彼女との距離を感じた。
彼女が絶対に踏み込ませようとしない領域。
苛立つと同時に、入る事を許されない自分が歯がゆいと思う。
たとえ無理強いして踏み込んでも、彼女は苦笑してそれを受け入れるだろう。
けれど、それでは意味がないのだとわかっている。
自らこじ開けるのではなく、開かれた扉をくぐらなければ何の解決にもならない。
「時々…君が嫌になる」
噛み締めるようにそう言った雲雀に、紅は静かな目を向ける。
そして、彼女は小さく微笑んだ。
「私はあなたの事、嫌いじゃないわ」
自分を嫌だと言う部分も全てひっくるめて、彼女は「嫌いではない」と表現する。
だから嫌なんだ、と思った。
彼女は全てを受け入れるのに、自分は受け入れてもらおうとしないから。
「それは紅に関係する事?」
雲雀がそう問う。
ディーノは少しだけ悩み、やがて頷いた。
「いいよ。終わったらあなたの話を聞いても」
「本当か!?」
「もしかすると紅の様子がおかしかった理由がわかるかもしれない」
「…結局は紅か」
こんな事なら、はじめから彼女も関係している事だと伝えておけばよかった。
そうすればもっと早い段階で彼に話を聞いてもらえたかもしれないと思う。
「さぁ、始めようか」
トンファーを構える雲雀を前に、ディーノは気を引き締めて鞭を取り出した。
雲雀の修行に付き合う事もなく、またツナ達と行動を共にする事もなく。
紅は単独で町を歩いていた。
何か目的があったわけではないけれど、何となく引き寄せられるように町へと繰り出して1時間と少し。
不意に、交差点で赤信号に止められた彼女は通行人と共に足を止めた。
ぼんやりと行き来する車を見ていた紅は、その奥に見えた人影に目を見開く。
「!」
信号が青に変わり、人々が歩き出した。
紅は動かない。
けれど、その人はゆっくりと向こうから歩いてくる。
二人の距離がどんどん縮まっていって、そして。
「………骸?」
何となく、彼の気配を感じる。
目の前に居るのが男性ではなく女性だとわかっているけれど、しかし。
手を伸ばせば届く位置で立ち止まった彼女は、眼帯に隠されていない目で紅を見上げる。
「あなたが…紅さん、ですね?」
「ええ」
「私はクローム。時間をください。骸様があなたと話すようにと」
骸本人ではない。
しかし、その繋がりがある娘である事に間違いはないようだ。
紅は少し考え、周囲に視線を向ける。
少し遠出しているから馴染みの店はない。
交差点の向こうに小さな喫茶店を見つけ、紅は再び彼女、クロームを見た。
丁度良く信号が青に変わり、紅が歩き出す。
しかし、彼女がその場に留まったままだと気付き、振り向いた。
「おいで」
微笑みを浮かべて手を差し出した。
クロームは戸惑うように視線を逃がし、やがて恐る恐る紅に手を伸ばす。
紅は控えめに重ねられた手を強くない力で握り、交差点の向こう側へと歩く。
本来であれば、手を引いて歩くなんて子供のようだ。
けれど、紅は彼女にはそれが必要だと感じた。
かつて、紅が骸に向かって手を差し出したのと同じように。
「骸、様…」
クロームは一歩分前を歩く紅の背中を見つめながら、彼の名を呟く。
―――ほら、何も心配ないでしょう?
声なき声が、クロームの耳に届いた。
彼女はこくん、と頷き、そして紅の手を握り返す。
―――彼女は僕の全てを受け入れる…だからこそ、愛しい。
嘲るようなものではなく、純粋な感情を含んだ声は、クロームの耳にすら届かなかった。
10.05.03