黒揚羽
Target  --081

雨が降り、雷の気配がする。
マンションのベランダで空を見上げた紅。
何と言う偶然―――いや、意図的だったのかもしれない。
雷の守護者の戦いの日に、雷雨とは皮肉なものだ。
肌を打つ雨が、次第に強まってきているのを感じる。
大きくなった雫がつぅ、と彼女の白い頬を滑り落ちた。

「紅」
「何?」
「そろそろ入れ。風邪を引く」

部屋の中から声をかけられた。
しかし、紅は空を見つめたまま動こうとはしない。

「びしょ濡れじゃないか。着替えた方がいい」
「大丈夫よ。どうせ、今からまた濡れるわ」
「…脱がせられるのと、自分で脱ぐのと…三秒だけ選ばせてやる」

一、と数字を数えだす暁斗に、紅は溜め息を吐き出した。
やるといったらやるのだろう。
仕方なく室内のフローリングに足を踏み入れる彼女。
服にしみこんだ雨水がポタリと床を濡らした。

「ほら、タオル。時間がないなら急げよ」
「別に間に合う必要もないわ」
「冷たいな。守護者が心配じゃないのか?」
「…疲れたのかもしれないわね」
「紅…?」

冗談めかして言ったはずの言葉に、どこか自嘲気味の答えが返ってきた。
いつもとは違う様子の彼女に、暁斗の表情が変わる。

「…私は、いつまで知らない振りをしていなければならないのかしら」
「………」
「自分は安全な場所で…あんな子供が、傷ついて」

タオルを頭の上に乗せ、小さな声で語る彼女。
暁斗には何も言えなかった。
やがて、溜め息一つを吐き出して、彼女はシャワールームへと消える。
入れ替わるようにして入ってきたディーノは、室内の空気に首を傾げた。

「何だ、この空気は?」
「…あいつはいつまで耐えればいいんだろうな、ボス?」
「……………少なくとも、この戦いが終わるまでは、な」

この空気の原因が理解できたのだろう。
真剣な表情を見せたディーノは、暁斗の問いかけにそう答えた。

「今日も見に行ってやれそうにない。紅を支えてやってくれよ」
「ああ。あのガキの仕上がりは順調なのか?」
「…まぁ、ぼちぼちだ。未だに指輪の話を出来ていないが…」
「まだなのか…。苦労するな、ボス」
「いや、中々面白いぜ?先が楽しみな奴だよ、恭弥は」

屈託なく笑うと、ディーノは部屋の隅においてある自分の荷物の中から、新しい鞭を取り出した。
新しいものは手に馴染むまでに時間がかかるので好きではないのだが、仕方がない。
腰につけていた古い鞭の代わりにそれを結わえ、古い方を見下ろす。
ぼろぼろに擦り切れたそれは、元の半分ほどの長さしか存在しない。
ここ数日の修行の激しさを物語っていた。

「何本目だ?」
「…5本目だな。そろそろ新しいのを発注しないと後がなくなりそうだ」
「それなら、もう用意してあるわよ。隣の部屋に」

不意に聞こえた声に、二人はドアのほうを向いた。
そこには服を着替えてきたらしい紅の姿がある。
くい、と隣を指差した彼女は、そのまま大股でディーノに近付く。
そして、彼の手に乗っていた古い鞭を受け取った。

「…随分と派手に修行をしているのね。特注の鞭がこんなにぼろぼろになるなんて」

信じられないものを見るような目だ。
しかし、それも無理はないだろうと思う。
この鞭は、紅が信頼を置く職人に特注で作らせているもの。
世界屈指と言っても過言ではないが、商売魂が皆無で、知る人ぞ知る、と言う職人だ。

「スペアは10本頼んでおいたけど…最後までもつかしら」

急ぎで作ってもらった為、更に10本追加で、と言うのは頼みにくい。
困ったように俯く紅に、ディーノはぽんとその頭を撫でた。

「10本あるなら何とかなるだろ。それに、もうちょっとしたら帰って来るからな」
「そう言えば…雲雀はどうしているの?一緒じゃないみたいだけど」
「山小屋で休ませてる。お前の睡眠薬、結構な効果だぜ」
「…必要になったのね」
「そうでもしないと休む気がないからな、アイツは」

呆れたように肩を竦めるディーノを見て、やはり、と納得する紅。
雲雀は戦いに集中すると、自分の身体を省みない。
ディーノとの修行は、それだけ彼を興奮させてしまったということなのだろう。
もしもの時の為に睡眠薬を渡しておいて正解だった。

「しかし…あの薬、かなり効果が高いな」
「そうでしょうね。象にも即効、3時間は確実に眠らせるほど強力なものを作ったから」
「………お前、恭弥のこと嫌いじゃないよな?」

そんな恐ろしく強力な薬を使わせる彼女に、思わずそんな事を問いかけてしまう。
彼女はニコリと微笑んだ。

「雲雀を心配して、でもあの頑固な彼を眠らせなければいけないから、強力なのを渡しただけ。
それに、嫌いな相手なら強力な痺れ薬にするわ」

悪びれた様子もなく恐ろしいことを告げる彼女。
思わず言葉を失う男二人を前に、彼女は気にした様子もなく壁掛けの時計を見上げる。
その時刻を見た彼女は、今までの空気を消した。

「そろそろ行かないと」
「あ、あぁ。そうだな。じゃあ、ボス」
「行ってきます。雲雀のこと、よろしく」

携帯だけを掴み、腰ポケットに押し込んで、足早に部屋を去る。
行って来い、とその背中を送り出せば、彼女はひらりと手を振って見せた。
やがて一人になった部屋の中で、ディーノは静かに息を吐き出す。

「紅の奴…かなり参ってるみてーだな」

あの表情を見る限り、問題ないとは言えなかった。
しかし、自分には雲雀を鍛えるという役目もある。

「…明日までに何とか仕上てみるか…」

彼女のために出来る事は、それくらいしかないのかもしれない。
ぽりぽりと頬を掻いたディーノは、新しい鞭を一撫でしてからマンションを後にした。

09.05.05