黒揚羽
Target --066
「結局、許しがもらえなかったわ」
リビングのソファーに座っているディーノの向かいで、紅は少しばかり苦笑を含ませた表情を浮かべる。
そんな彼女に、彼は分かりきっていた、と頷いた。
「ボスの手伝いも兼ねてイタリアに戻りたい気持ちもあるの。だけど…」
「そこは気にすんなよ。そうやって、別れを拒まれるうちが華って事だな」
別れを惜しんで…いや、この場合は拒む、だろうか。
兎に角、そうして引きとめてくれる人がいると言うのは、幸せな事だ。
「彼はあっさりした性格だから、まさか引き止められるとは思わなかったんだけど…」
少し、驚いてる。
そう言った彼女に、ディーノは心中で苦笑した。
彼女の話を聞いている限りでは、彼、こと雲雀恭弥は、確かに淡白な性格を持っているようだ。
だが、プライドは人一倍高く、しっかりと己のテリトリーを確立している。
その枠内に入るものに対しては、結構な執着心を持っている―――ディーノの読みでは、彼はそんな人物だ。
今回の結果は、紅が彼のテリトリーに入っている証拠なのだろう。
微笑ましいと思う反面、どこか胸が痛む。
忘れたと思っていても、感情は中々上手く割り切れないものだ。
「ディーノ?」
「!あ、あぁ…どうした?」
思考の波に囚われていたのだろう。
気付いた時には、不思議そうに首を傾げる紅がいた。
慌てて取り繕う彼に、彼女は疑問符を一つ追加する。
「だから…私の手が必要な時は遠慮なく言って、って言ったの。
キャバッローネの黒アゲハだって、私なんだから。必要ならちゃんと仕事もこなすわ」
いつまでも優遇してくれなくて構わないから。
そう言ったのよ、と、恐らくは先ほども言ってくれたであろう内容をもう一度口にしてくれる彼女。
「あぁ…そうだな。確かに、滞ってる部分もないとは言わない」
「でしょう?一度、屋敷に戻った方がいいかしら」
「でも、そいつが許すか?」
「一時帰宅くらい、雲雀だって無理にはとめないと思うわ。彼だって人間なんだし」
その辺は何とかなるだろう。
そんな風に、彼に伝える時のことを思い浮かべる彼女の傍らで、ディーノはパチクリと目を見開いていた。
彼の様子に気付いた紅は、先ほどのように首を傾げてその名を呼ぶ。
「どうかした?」
「いや…何か、呼び方が変わってたからな」
ちょっと驚いた、と告げる彼に、彼女は一瞬動きを止める。
それから、すぐに答えるのではなくあえてお茶を喉に流し込んでから、その湯飲みを膝の上で支える。
「…色々とね。あったのよ」
彼女の声は話したくないと言っているように聞こえた。
遡る事、数時間前。
イタリアに帰るのは無理そうだ、と納得した紅は、現状をどう打開するかで頭を悩ませていた。
こんな時、男女の力の差が酷く恨めしいと思う。
彼女にとってはとんでもなく恥ずかしい状態であり、今すぐにでもこの腕を脱出したいわけだが。
残念ながら、その願いは叶えられる事もなく、その腕は未だに彼女を拘束している。
「放してもらえませんか」
駄目で元々。
そう思いながらも、紅はそう言った。
しかし、予想に違わず、彼はその申し出を受け入れてはくれない。
寧ろその腕の力が強まったような気さえして、心中で溜め息を零す。
「放して欲しい?」
「是非」
「じゃあ、敬語禁止」
はじめ、何を言われたのか分からなかった。
けいご?あぁ、敬語か。
そんな風な展開を見せる脳内。
随分とスローペースになってしまったものだ。
これで、開発局の権威だと言うのだから、世の中分からないものだな―――自分ですら、そう思ってしまう。
「じゃあ、やめま…やめるわ。これでいいんでしょう、雲雀さん」
開き直りと言うのだろうか。
割合と早い段階で敬語をやめることを納得した彼女。
雲雀の腕の力が緩んだ。
そこから抜け出し、彼との距離を取る―――つもりだったのだが、最後の最後で手首だけが拘束される。
「雲雀さん?」
約束が違いませんか、と思ったけれど、それは目線で伝えるだけに留めておく。
その目が語る内容に気付いたのか、彼女はやれやれと肩を竦める。
「雲雀、って呼べばいいの?」
そう問いかけても、返って来るのは無言ばかり。
しかし、何となく間違っていないのだと悟る。
正直じゃないなぁと思いつつ、彼女は苦笑を浮かべた。
「暫くは慣れないと思うけど…ちゃんと、努力するわ―――雲雀」
漸くその手の力が緩み、本当の意味で解放される。
痣になるだろうかと心配した手首は、特に問題もなさそうだった。
かなり強い力で握られたと思っていたのだが、握り方が優しかったのだろう。
その辺りに彼の不器用な優しさを感じ、ふっと口元に笑みを浮かべた。
思い出し笑いと言うのはあまり好きではないのだけれど、この場合は苦笑なのだから許されるだろうか。
紅はソファーに座りこんだまま苦く笑う。
「何て言うか…ツナとはまた違っていて、面白いわよね」
「は?」
「何でもないわ。こっちの話。それより、どうする?」
一度イタリアに戻るかどうかの答えを求める紅。
誤魔化されたという気分は否めないけれど、今はそちらに答える方が先と判断したのだろう。
ディーノは悩むように腕を組んだ。
「まぁ、他の連中にも聞いてみるが…俺の希望としては、一旦戻ってもらった方がありがたい…か」
彼女に任せている機関の中に、上手く動いていない所がある。
とりあえず他のメンバーで何とかしているのだが、トップである彼女に解決してもらうのが一番だ。
ただ、忙しいであろう彼女にそれを頼むのも気が引ける。
1時間や2時間で行ける距離ではないのだから、尚の事申し訳なく思うのだ。
「ディーノ。私はキャバッローネの一員で、あなたはそのボスでしょう?遠慮なんてしないで欲しいわ」
ボスならばボスらしく、命令してくれ。
そう言えば彼が困ると分かっていても、紅は言わずには居られなかった。
案の定、困ったような視線を向けられてしまう。
「んじゃ、今回は頼んでおくか。来週俺が帰る時に一緒に帰ってくれ」
「了解。飛行機の手配は任せてくれていいわ。どうせ、まだでしょう?」
不敵な笑みを浮かべてそう問いかける彼女に、ディーノは視線を逸らした。
彼がそんなに手際いいとは思わなかったが、やはり予想通りだ。
「と言うよりも、既にチャーターしてあるから」
「…流石だな」
「あなたねぇ…。20人も30人も部下を連れてくるんですから、帰りの飛行機くらいはちゃんと手配しないと。
当日にそんなにも空席があるとは限らないんだから」
まったく…と言いつつも、それを補うのが自分の仕事なのだと分かっている。
自分が居るから、自分に任せてくれている。
それが信頼でなくて何だと言うのか。
そんな想いが嬉しくない筈もなく、紅の表情は柔らかかった。
08.02.01