黒揚羽
Target  --065

冷たいドアノブに手をかけ、紅はそこから動けずにいた。
手で数センチだけドアノブを下げ、それから前へと押し開ければそこは開く。
それは、その先に居る人物に顔を合わせることに繋がり―――それが、彼女の足を躊躇わせていた。
悩んで、力を入れようと握り締めてみて、また手を放す。
そうして何分を無意味に過ごしたのだろうか。
自分でも馬鹿らしいと思いながら、彼女は静かに溜め息を吐き出した。
そこで、手を添えていただけのドアノブが彼女の意思とは全く無関係に動き出す。
ガチャ、とドアノブが動き、その後にドアが離れていく。
ドアを隔てていた向こうの世界は外だ。
差し込む明るさに、意図せず目を細める紅。

「委員長が呼んでます」
「草壁さん…」
「どうぞ」

彼女よりも背の高い草壁は、その威圧感を忘れさせるように微笑んだ。
そうはいっても、彼女でなければ先入観によりそれを受け入れられないだろうけれど。
道を譲るように身体を動かした彼の向こうに、屋上のコンクリートの上に寝転がる人影が見える。
紅は少しだけ悩み、やがて意を決したように歩き出した。
バタン、と扉の閉じる音がして首だけを振り向かせると、先ほどまでそこに居た草壁がいなくなっている。
気を利かせた、と言うことなのだろう。
時折、彼女の髪を遊ぶように風が吹く。
その音が鼓膜にも届くが、それ以外は無音だ。
足音を潜ませて近づき、寝転がって瞼を閉ざしている雲雀の顔が見える位置で止まる。
二人とも、何も話さない。
バサッと羽音が聞こえた。

「あ…」

紅が声を上げた。
彼女に甘えるように、一羽の小鳥がその肩に舞い降りてきたのだ。
ずんぐりとした丸い身体のこの小鳥には、見覚えがある。

「あなたも一緒だったのね」

そう言って喉元をくすぐれば、小鳥はチチッと小さく鳴いた。
それから、満足したのか大空へと翼を広げて飛んでいく。
今から散歩に出掛けるのだろう。
またすぐに帰ってくる、何故か、紅はそう思った。

「言いたいことがあるなら言えば?」

そんな声が聞こえ、彼女はビクリと肩を揺らした。
小鳥を見上げていた視線を落とせば、いつの間にか開かれた彼の目が彼女を見つめている。

「―――――…ごめん、なさい」

紅は知っている。
平気そうにしている彼の身体は、服の下に大量の包帯を巻いていることを。
ボンゴレ屈指の医療チームによる治療はすでに完了し、ある程度安静にしていれば一週間程度で傷も癒える。
しかし、怪我を負ったと言う事実が消えることはない。
その原因の一端が自分にあること―――それが、紅を逃げへと追い詰めていた。

「…謝られる理由がない」
「だって、私…」
「……君が僕に怪我をさせた?」
「そ、そんなことはしてません!」

でも、と言おうとした彼女は、雲雀の視線を受けて思わず黙り込む。
それ以上を許さない真っ直ぐな眼に射抜かれる。

「しつこいよ。そんな事で何日も逃げてたの?」

馬鹿馬鹿しい。
そんな思いの込められた言葉に、彼女は苦笑した。
自分でもそう思うのだから、他の人がそう感じても仕方がないのだ。

「ごめんなさい」
「聞き飽きた」
「…これで…最後にしますから。謝罪も、迷惑も…」

意味深な彼女の言葉。
雲雀は、一度は他所に向けた視線を彼女へと戻した。
意味を問うようなその眼差し。
彼女はそれに答えるように微笑んだ。

「イタリアに帰ります」
「…何を言ってるの?」
「私はマフィアです。マフィアが生きるべき場所に、帰ります。だから…」

ごめんなさい。それと、今までありがとうございました。
そう言って、彼女は深く頭を下げた。

「イタリアに帰ってどうするの?」

そんな声が聞こえ、彼女は顔を上げる。
紅は少し悩み、やがて口を開いた。

「ファミリーに帰って、元の自分に戻って…溜めてある仕事を片付けます」

きっと、沢山溜まっているはずだ。
急ぎのものは日本に届けるよう頼んであるけれど、その他は本拠地に置いてもらっている。
自室がパンクしていなければいいのだが。

「それから、あいつの所に行くんだ?」
「え?」

雲雀の声は小さかった。
ちょうど風が鼓膜を震わせ、その声を聞き逃してしまう。

「行かせないよ」
「雲雀、さん…?」
「行かせない」

ゆっくりと身体を起こした彼は、そのまま手を伸ばす。
そして、すぐ近くで直立不動のまま状況を把握しかねている彼女の腕を引いた。
引き寄せられる力に抗う暇もなく、半ば雲雀の上に倒れこむように座り込む。

「わざわざあんな所まで迎えに行った上に怪我までして、それで帰られた日には、本当にこの怪我が馬鹿みたいだ」
「…ごめ―――」
「何度もしつこい。次に謝ったらその口塞ぐよ」

言葉を遮ってそう言われてしまえば、口を閉ざさざるを得ない。
きゅっと唇を結ぶ彼女。

「でも、私はマフィアですから。これ以上誰かを巻き込まない為にも、生きるべき場所で生きていきます」
「巻き込まれた覚えはない」
「似たようなものです」
「君もわからない奴だね。僕がいいって言ってるの。それに、あいつの所に行かれるのは不愉快なんだよ」

そう言ってズイッと近づいてくる彼。
それに比例するように、紅も後ろへと仰け反る。
近づく、離れる。
これを繰り返す場合、有利なのは常に前を向いていられる近づく側だ。
トン、と背中が屋上のフェンスに当たる。
逃げ場を失ったところで、紅は雲雀の襟元から覗く包帯を目にしてしまう。
巻き込まれた覚えはないと言うけれど、自分と関わらなければ彼がマフィアに関わることもなかったのではないか。
そんなことを常に考えている彼女には、雲雀のようには思えなかった。
自分が居なくてもリボーンやツナを通してマフィアと関わったかもしれない。
何も変わらなかったのかもしれない。
けれど、現に自分の携帯によって呼び出された彼が負傷し、ここにいる。
それだけが、変えようのない事実だった。

「…ごめんなさい」

自然と、意図せず唇から零れ落ちた言葉。
また謝ってしまったのだと気づいたのは、唇に何かが触れてからだった。

「意外に覚えが悪いね、君」
「……………」

舌を出してぺろっと自分の唇を舐める彼。
そんな彼を前に、紅は口元を覆うようにして俯いた。
流石に成人した身である紅が初めてと言うことはない。
だが、この状況でそれが来るとは思わなかった。
混乱を極めている彼女をいい事に、雲雀はその腕を更に引き寄せる。
年齢は違えど、肉体は同年齢だ。
肉体に年齢の差がなければ、性別の差だけが有効になる。

「もう一度言っておくけど…行かせないから」

抱きしめられたまま、そう告げられる。
頷く以外、彼女に何が出来ただろうか。

08.01.26