黒揚羽
Target --058
目を覚ました紅は、部屋の中を見回した。
草臥れた室内は閑散としていて、人の気配は無い。
骸の姿すらそこにはなく、紅一人だけが存在していた。
まるで、彼との再会が夢であるかのような静か過ぎる空間。
―――貴女がいてくれるならば、マフィアも何もかも…どうでもいいと思っていたんですよ。…あの日までは。
ふと、骸の言葉が脳裏を過ぎる。
少年が自分に向ける感情は、姉を慕うような感情だと思っていた。
しかし、彼の言っていた言葉が真実だとするならば、彼は―――
「骸…」
彼を憎んでいないと言えば、嘘になる。
けれども、心の底から憎み、その思いだけが彼に対する全てではない。
紅はあの日まで…いや、今この瞬間さえも、彼を家族のように思っている。
「『あの日』…何があったの…?」
自分がボンゴレに囚われた事が原因ではないだろう。
何か、彼の背中を後押ししてしまうような切欠があって、あの惨劇が起こってしまった。
そんな事を考えていた紅は、そのまま溜め息と共に額を手で覆う。
心なしか、その頬は赤い。
―――手の届く所に来てしまったら、奪いたくなる。例え…その居場所を、壊してでも。
「…あんな事言われたら…」
一回りも年下の異性に、あんなにも真っ直ぐな感情をむけられた事はない。
紅の恋愛偏差値は決して高いとは言えない。
今まで付き合った異性と言えば、片手の指でも余るくらいなのだ。
ここ数ヶ月は雲雀と言う異性と共に行動する事が多かった所為で、彼への思いが変化してきていた。
けれど、今となってはそれが錯覚なのか本心なのかが分からなくなってしまっている。
忘れようとしていた過去が、動きを制する鎖の如く絡みついて離れない。
あの頃の思いや感情は、決して錯覚ではなかったのだから。
フルフルと頭を横に振った。
こんな事ばかりを考えていても仕方がない。
紅は勢いをつけて立ち上がり、辛うじてガラスの残る窓に近づいた。
そこから下を覗き、自分が2階に居る事を知る。
「…飛び降りられない事もない、か」
下手な飛び降り方をすれば、どこかを傷める程度は可能性としてありえる。
しかし、いくらなんでも死ぬ事はないだろう。
高さからそれを判断した紅の行動は早かった。
その辺に散らばっていた瓦礫のうちの、自分で持つことの出来る限界の大きさの物を選ぶ。
そして、それを迷いなく窓ガラスに放り投げた。
やや弧を描いて飛んだそれは、少しだけ予想していた位置よりも低い箇所にぶつかる。
もちろん古びたガラスがそれを弾き飛ばせる筈もなく、ガシャン、と派手な音を立てて割れた。
歪に尖っていて危険な箇所を蹴って割り、紅一人が十分に通れるであろう穴が開いた事を確認する。
そして、彼女はひょいとそこから身を投げた。
落下中に身体の姿勢を崩す事もなく、足から着地する。
衝撃を和らげる為に膝を折ったことが成功したのだろう。
ほんの少し足の裏が痺れる以外は、身体に異常は来たさなかった。
「…うん。結構上手くいったね」
先ほどまで自分が居た窓を見上げ、紅はよし、と頷く。
どのくらい時間が経っているのかは定かではないが、どうやら身体が鈍るほどではなかったようだ。
日単位で意識を飛ばしていたと言う事はなさそうである。
そうしていると、不意に足元に伝わる小さな振動を感じ取った。
地震ではない振動に、紅は表情を険しくする。
「急いだ方が良さそうね…」
革靴なのがいただけないが、この際不満は言っていられない。
グッと調子を確かめるように地面を踏みしめ、紅は顔を上げた。
走り出す彼女に不自然な動きは見当たらず、寧ろ自然な走りで森と言っても過言ではないそこを走り抜けていく。
どのくらい走っただろうか。
少し息が切れてきたところで、紅が何かを見つける。
相手は気付いていないのだろう。
こちらに背を向けるようにして、木々の向こうに広がる少し開けたその場所を見つめている。
と、その身体が動いた。
手に持っていたヨーヨーが回転したかと思えば、無数の針が林を飛び出していく。
それが向かう先には―――
「―――っ!!」
声なき叫びが届いたのだろうか。
男がバッと勢いよく振り向いた。
その視界に紅を映し、面倒そうに舌打ちする。
「…逃げ出したの?」
クイ、と眼鏡を上げながら、彼はそう言った。
面識があるような、ないような…はっきりとは覚えていない。
だが、この状況から察するに、彼は骸の仲間だ。
男を前に紅はギュッと拳を握る。
この男を許したくない―――けれど、こうしている間にも…。
「…っ」
無理やりに視界から彼を放り出すようにして、紅は林から飛び出した。
去っていく彼女の背中を見ながら、男…千種は、溜め息を吐き出す。
「…命令はここまで」
恐らく、骸は紅が逃げる事を予想できた筈だ。
しかし、逃げ出した彼女を再び連れ戻せとは言われていない。
それならば自分が彼女を連れ戻す必要はないのだろう。
ヨーヨーを懐にしまい、彼は林の中に消えた。
「ランチアッ!!」
林から飛び出してきた紅の存在に、その場に居た一同が驚いたように彼女を振り向いた。
しかし、そんな視線を気にかけることもなく、紅はそのままの勢いで地面に倒れているランチアの元に駆け寄る。
膝が地面にすれて傷つくのも物ともせず、彼女はもう一度彼の名を呼んだ。
「…紅…か?」
閉じようとしていた彼の瞼が震え、その目に紅が映る。
今にも泣き出しそうな彼女の様子に、彼はゆっくりと苦笑を浮かべた。
「悪…ったな…。お前、まで…巻き込んで…」
「喋らないでっ!すぐに薬を…っ!!」
「縮んで…た事には驚いたが…」
「喋るなって言ってんでしょ!!」
ガツンと傷のない部分を殴る。
容赦ない攻撃にランチアはぐっと呻いて口を閉ざす。
「相変わらず…容赦、ないな…」
「それ以上喋ったら…今度私を置いていったら、許さないんだから…っ!」
毒を無効化する薬を口の中に放り込んで歯で砕く。
そして、傷に障らないようにランチアの上体を軽く持ち上げ、迷う事無く彼の唇に自身のそれを重ね合わせる。
背後でツナたちが驚く声が聞こえたけれど、紅はそんな事は気にも留めなかった。
飲み込む力があるだろうかと心配したが、喉が動いたのを見てほっと安堵の息を零す。
毒さえ無効化させれば、傷自体は致命傷のものはない。
「ツナ、先に行ってくれる?」
彼女はツナを振り向かずにそう言った。
その背中を見て、彼は「…うん」とただ一言だけそう答える。
「…連れ去られたって聞いたけど………無事で良かったよ、紅」
また後でね、少しばかり後ろ髪を引かれた様子で、ツナはそう言う。
振り向く事は出来なかった。
―――ありがとう、ツナ。
心の中でそう呟いた。
07.11.24