黒揚羽
Target --056
目を閉じ、耳を塞ぎ。
そうして全てを遮断して生きていけば、望まない未来に進まずにすむだろうか。
決してありもしない空想を思い浮かべ、紅は自嘲の笑みを零す。
「骸。一つだけ…聞かせて?」
瞼が熱い。
この歳になっても子供のように涙を流す事ができるのだと、初めて知った。
わざと視線を合わさないようにして骸に向けてそう言う。
答えはないけれど、紅は続けた。
「一度でも…引き取られた事を、良かったと思った事はあった?」
草臥れた廃屋の窓から空が見える。
そこを飛ぶ鳥の自由さに、憧れにも似た羨望を抱いた。
暫しの沈黙がその場を支配する。
やがて、彼が動いたのが気配で分かった。
「場所を移しましょうか?紅さんの為に、素敵なゲストを用意してあります」
「ゲスト…?」
「ええ、紅さんも喜ぶと思いますよ」
そう言って、彼は折りたたまれた携帯を二つ取り出した。
見覚えのあるそれに、紅の目が見開かれる。
骸は彼女の反応に笑みを深め、その両方を彼女の手元へと放り投げた。
躊躇うように動きの悪い指先でそれを開き、ボタンを操作していく。
発信履歴の一番上に表示された登録名は「雲雀恭弥」。
普段から携帯にはフルネームを登録する彼女が、雲雀の番号を登録した際に入力した名前だ。
しかし、紅はこの発信に覚えが無い。
「…彼に、何をしたの?」
もう一つの携帯を持ち上げ、それを見下ろしたまま問いかける。
恐らく、真実は自分の脳内に浮かんでいるものと同じだろう。
手の中にある携帯が、記憶と間違いなく雲雀のものであるならば。
震えそうになる声を何とか言葉として口にすることに成功し、彼を見上げる。
骸は何も答えず、ただ笑みを深めた。
それから、殊更にゆっくりと口を開く。
「場所を移しましょうか…紅さん」
酷く優しい声色で紡がれた言葉は、紅に冷たい何かを落とした。
遡る事、数時間前。
突然連絡が取れなくなった紅に、雲雀は苛立ちを高めていた。
朝から何度も連絡を取り合っていたのに、それが唐突に途絶えたのだ。
相手の携帯は電波の届かない所にあるのか、もしくは電源が入っておらず繋がらない。
こうして彼女が音信不通になる事は珍しい事で、副委員長である草壁も頭を捻っている。
雲雀の携帯が着信音を奏でたのは、丁度そんな頃だった。
「――――」
見下ろしたディスプレイに表示されているのは、彼女の名前だ。
それなのに、すぐに取ろうと思わないのは何故だろうか。
急かす様に流れる校歌が、今ばかりは苛立ちを助長させる。
「…出なくてよろしいので?」
控えめに掛けられた声によりハッと我に返ると、雲雀は漸く指先を動かす。
通話ボタンを押して携帯を耳へと移動させた。
『初めまして。雲雀…恭弥さん、でしょうか?』
「…紅じゃないね。誰?」
相手の声は躊躇っていると言うよりは、わざとゆっくりと喋っているように聞こえる。
明らかに紅とは違う声色に、雲雀の表情が冷めていく。
その場の空気すらも冷えていくような気がして、草壁は口を閉ざしたまま応接室を出て行った。
電話の内容は気になる。
気になるけれど、ここで雲雀が暴れれば巻き込まれかねないのだ。
『別に誰でもいいでしょう。まぁ、紅さんと関わりのある者…とでも言っておきましょうか』
「………紅は」
『ここに居ますよ。今は電話口には出られませんけれど』
そう言って相手は喉で笑う。
その笑い声が電話越しにも雲雀の耳へと届き、彼は眉間の皺を深めた。
「紅をどうするつもり?」
『彼女も並盛の人間のようですからね』
並盛の生徒が襲われている一件に関係しているのだろう。
言外に深い意味合いを含ませた言葉だ。
「…………………」
『安心してください。彼女には何もしませんよ。それでも心配なら、あなたがここに来てはどうですか?』
僕は逃げも隠れもしませんから。
余裕すら…いや、寧ろその塊のような声。
それに続けて紡がれた場所の名前を聞き終えるや否や、携帯は沈黙した。
耳からそれを離してディスプレイを見下ろせば、通話時間だけがぼんやりと浮かんでいる。
「…黒曜センター」
最後に聞こえた声が紡いだ施設の名前。
それを呟きながら、雲雀は自身の携帯を操作した。
数秒後、彼女の携帯の位置情報が送信されてくる。
これが完了すると言う事は、彼女は携帯の電波が届かない場所に居るわけではないようだ。
恐らく、先ほどまで電話が繋がらなかったのは、電源が落ちていたのだろう。
表示された地図を見下ろし、やがてソファーから立ち上がる。
彼は他の何物にも一瞥をくれる事すらなく、真っ直ぐに学校を出た。
そして、時は現在へと戻る。
薄暗い建物の中を進む骸の背中を追う。
今ならば逃げる事は出来るだろう。
彼は紅を拘束する事も、後ろを振り向く事もない。
彼は確信しているのだ。
紅が逃げないと言う事を。
「ここですよ」
ドアの名残はあれど、部屋を区切るものとしての役目は果たしていない。
そんな枠だけのそこを通り、骸が声を上げた。
彼に続くようにして入った部屋の中を見回す。
薄暗い室内は、窓から差し込んでくる明かりも隅々まで届いていない。
ふわり、と紅の視界に緋色のそれが舞い降りた。
「さ、くら…」
嫌な予感がした。
きっと、それは気のせいでも何でもないのだろう。
掌に舞い降りたそれを見下ろしていた目で、部屋の中をぐるりと見回す。
入り口の位置からは見えにくい死角になっているそこに、人の足のようなものを見つけた。
「雲雀さんっ!!!」
引きつった声をあげ、ぐたりと床に伏せている彼の元へと駆け寄る。
意識を失っているわけではないのか、紅の声に僅かな反応を見せた。
掠れた声が、小さく…本当に小さく、紅、と呼んだ。
「ごめんなさい…巻き込んで、ごめんなさい…っ」
謝ってどうなる事でもないけれど、言わずには居られない。
目を閉じたくなるような怪我を負っていて、彼の腕に触れた指先が赤く濡れる。
「…骸…あなたは一体何がしたいの…っ!?」
彼が何を考えているのか分からない。
紅が知っている少年だった彼は、もう居なくなってしまったのだろうか。
一度は弟のように可愛がっていた人を、憎みきる事などできない。
けれど…目の前で、雲雀が血に濡れているのも、また事実。
板ばさみの心が悲鳴を上げた。
07.10.09