黒揚羽
Target  --053

何かが始まろうとしていた。
いや、はっきりと視覚としてそれを認識したわけではない。
ただ、感覚的に。
新たな事が始まろうとしている、その足音を聞いた気がしたのだ。








ここ数ヶ月は、並盛の不良らが盛んに活動していて、本当に慌しい日々だった。
不良が動けば風紀委員も動く。
自然と紅自身もその事後整理に追われ、落ち着いた時にはすでに夏が終わってしまっていた。
この間まで桜が咲いていたのにな…と思いつつ、青々とした葉をつけた樹木を見上げる。
すでに日の暮れた街中を歩いている紅は、傍から見れば誰も風紀委員だとは思わないだろう。

「何か、ツナたちと会う暇すらない夏休みだったわね」

思い出してみれば、彼と会ったのは1学期の学校で、しかも廊下ですれ違ったのが最後だった気がする。
会話と呼べるようなものはなく、本当に挨拶程度だった。
元々彼らと深く関わりあうつもりのない紅にはそれで十分なのだけれど。
本当ならば、実年齢がはるかに年上の彼女は、学生に関わるつもりはなかった。
半ば強制的に風紀委員に入れられなければ、至極平穏で当たり前な学生生活を終えていたことだろう。
そう言う意味では、ある種の刺激をもらえているので日々の生活が充実している。
そんな風にここ数ヶ月の事を思い浮かべていた紅。
不意に、彼女がジーンズのズボンのポケットに入れていた携帯が着信音を奏でる。
携帯が鳴り響くというのは、当然ながら突然だ。
前もって「鳴りますよ」と警告してくれる事はなく、油断していると思い切り驚いてしまう事もしばしば。
今日は油断していた日らしい。
ビクリと肩を揺らして歩みを止めてから、慌ててそれを取り出す。
ディスプレイを確認せずに通話ボタンを押したけれど、大凡の相手の目星はついていた。

「何かありましたか?」

焦るでもない相手の声が機械越しに耳の鼓膜を揺らす。










「紅。また被害者だ。今度の奴は総入れ歯と部分入れ歯だな」

今しがた通話をきったばかりと言った様子の暁斗がリビングに顔を出す。
彼はこの近くの並盛中央病院に友人が居て、そこから怪我人などの情報を得ているのだ。
それが彼のメリットになる事はないけれど、少なくとも紅には役に立つ。
主に、今回のように風紀委員が怪我をしている場合などに。

「…またなのね」
「ああ。ボコボコにされて、歯を2本だけ残して後は全部抜かれたらしい」

その前の奴は1本だ、と答えながら携帯を閉じる。
そんな彼の言葉を脳内で整理する。

「…次の被害者の歯が残り3本だったなら…意図的ね」
「…だな。まぁ、今のところ狙われてるのは風紀委員らしいからな。紅も用心しろよ」
「分かってるわ」

昨日の夜から今朝だけで、三人目の被害者だ。
どこか対立している不良グループでもあっただろうかと記憶の中を探るが、目当ての物は出てこない。
はぁ、と短く息を吐き出してから、自分の脇に置いていた携帯を持ち上げる。
彼に新たな被害者の報告をしなければ。

「進展があったら教えて」

電話してくるわ、とリビングを出て行く彼女の背中に、暁斗からの了承の声が返って来た。
自室に戻るまでの廊下で、すでに彼の番号を呼び出して通話ボタンを押す。
数回のコール音の後、無機質な電子音が彼の声へと入れ替わった。

「三人目の被害者です」
『…詳しく聞こうか』
「前の二人に続き、歯を何本か抜かれています。残されていたのは2本のみ。発見されたのは―――」

紅の声は、バタン、と自室のドアを閉ざす音によって聞こえなくなった。















翌日の月曜日。

「紅、そろそろ出発するぞ?」

そう言って、暁斗がキーを片手に制服に学ラン姿の紅を呼ぶ。
合計8人の風紀委員が襲撃にあったという事もあり、過保護な彼が学校まで送ると申し出てくれたのだ。
別に大丈夫だと断った彼女だが、相手が折れる事はないと悟ると早々に諦めた。

「今行くわ」

少し待って、と答えようとした所で、手に持っていた携帯が着信する。
驚く事無くそれを見下ろした彼女はそれがメールの着信音である事に気付いた。
パカッと開き、数回ボタンを操作してその画面を開く。
ものの3秒で読みきってしまうほどに短い文面に、紅は苦笑を浮かべた。
それから、携帯を閉じて玄関の暁斗を呼ぶ。

「どうした?」
「送ってくれなくてもいいわ」
「…危ないから却下」
「大丈夫よ。下に、迎えに来てくれてるから」

そう言って彼女はクイクイと人差し指を床に向ける。
床を指したかったわけではなく、ここよりも下の区域を指したかったのだろう。
暁斗は始めその意味を理解できなかった。
だが、彼の脳内が追いつく前に、紅は鞄を片手に玄関へと歩いてしまう。
そこに立ったままの彼の背中を廊下へと押しやり、代わりに自分が玄関のドアの前に立つ。

「じゃあ、行って来ます。帰り、一人になりそうだったら連絡するわ」

そう言うと、紅はチュ、と彼の頬に軽く唇をあて、引き止められる前にそこを出て行ってしまう。





電子音が1階への到着を知らせてくれた。
ボタンを押す事もなく開かれた両開きのそこを潜り抜け、エントランスホールを抜ける。
マンションを出て目に入るのは、馬鹿みたいに大きくはなく、けれど小さくもないバイクと、それに跨った人。
紅と同じく黒の学ランに袖を通した彼は、今しがたガラスのそこを出てきた紅に気づいた。

「おはようございます。道中襲われませんでしたか?」
「別に。不審な奴にも会ってないよ」
「それを聞いて安心しました」

そう笑いかけたところで、ヘルメットを手渡される。
いつものようにそれを受け取り装着した彼女は、前よりは少しだけスムーズな動作で彼の後ろに落ち着いた。

「あれから被害者は増えてないの?」

バイクを発信させる前に、雲雀がそう問いかける。
エンジンを切ってあるために、彼の声はヘルメット越しでもちゃんと聞き取る事ができた。

「ええ。土日の被害は8人。全員が歯を抜かれている事と風紀委員だということ以外に共通点はありません」
「やられたのは、風紀委員の中ではそれなりに使える奴らだよ」
「…そうなんですか?じゃあ、学校に着いたらそのあたりも調べてみます」

風紀委員に入って日が浅いわけではないけれど、彼の言う「使える奴ら」と言う観点で考えた事はなかった。
その方面でも調べてみるか…と思ったところで、バイクのエンジンが掛かる。
派手な音が他の音を完全に食ってしまい、紅の脳内はせいりするには不向きな状況になった。
落ちるよ、とそのエンジン音の向こうから声を掛けられたところで、思い出したように彼の腰に手を回す。
程なくして滑り出したバイクは慣れた調子で一番目の角を右折した。

07.08.30